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秋田県横手市雄物川町沼館字沼館

震災前取材

 

別名:沼館城

沼の柵は、雄物川東岸の河岸段丘を利用して築かれた平城。周囲を大小の河川や沼、湿地に囲まれた水城だったようだ。

城の縄張りは、蔵光院の境内に本郭が置かれ、雄物川北小学校敷地が二の郭、小学校北側の住宅地から八幡神社までの辺りが三の郭である。現在は、蔵光院を取り囲むように土塁が残り、また西側には寺から小学校まで水堀跡が良く残っている。

前九年の役の後、陸奥、出羽の二州は、それまでの安倍氏に変わり清原氏の一族が支配していた。しかし、内紛の中、清原氏の宗家の清原真衡の死後は、陸奥六郡は、陸奥守源義家の裁定で、清原家衡と清原清衡に二分された。

しかし家衡はこの裁定を不服とし、応徳3年(1086)清衡の館を攻撃、清衡の妻子一族はすべて殺された。このため、清衡は義家の助力を得てこの沼の柵に篭った家衡を攻撃した。

沼の柵は、四方を水で守られた堅城で、戦いはそのまま冬に入り激しい風雪の中での戦いになった。清衡、義家軍は、大雪と寒さ、その上食料の欠乏にあい、多くの兵を失い苦戦し、結局兵を引き上げた。

その後、家衡は叔父の武衡の進言をいれて、より堅固な金沢の柵に移り、清衡、義家軍と戦い破れ、陸奥一帯は藤原と姓を戻した清衡が支配するところとなった。

沼の柵は、その後どのような歴史を辿ったかは定かでないが、平泉の滅亡後、その功により小野寺氏が雄勝郡の地頭に任じられ、小野寺氏は稲庭城を本拠として勢力を拡大し、要地に支城を築いた。正安2年(1300)に小野寺道有が荒廃していた沼の柵を修築し、重臣落合氏を配したと云われている。戦国時代になると小野寺稙道は居城を稲庭城から沼館城へと移した。

小野寺氏は仙北屋形と称され最上地方にまで勢力を伸ばしたが、天文21年(1552)、小野寺稙道は、横手城城主の横手佐渡守光盛らの謀反に遭い、湯沢の湯沢城で討死した。嫡男の四郎丸はこれを逃れ、山形県庄内の大宝寺氏に保護され、弘治元年(1555)大宝寺氏の援軍を受けて横手佐渡守らを討ち、その後は横手城を本拠とし、この城には一族の大築地秀道を配し城代とした。

天正18年(1590)、義道は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣したが、その後の上杉景勝の検地に対して大築地氏らが「仙北検地騒動」を起こし抵抗した。大築地氏らはこの城に篭り、最上義光らの攻撃を受けて、衆寡敵せず、自ずから城に火をかけ退去したと云う。

この騒動により、小野寺氏は所領の一部が削られ三万石のみが安堵され、旧領の雄勝郡は山形の最上義光に宛がわれ、この時期に沼館城は廃城になったものと思われる。その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで小野寺氏は、旧領回復のため東軍の最上氏と争い改易となった。