秋田県由利本荘市岩城下蛇田字高城

震災前取材

 

別名:天鷺城、高城山城、高館

赤尾津城は、標高170mの高城山上に築かれた山城で、頂部に本郭が位置し、その周りに二ノ郭、三ノ郭を配している。現在本郭跡には展望台が設けられ、三ノ郭は遊園地などになっている。山麓にある「天鷺城」「亀田城」は、ともに観光目的のシンボルとして建てられたもので、城跡とは無関係である。

この地は、かつては天鷺山と呼ばれ、豪族天鷺速男(あまさぎはやお)が居館を構えていた。付近一帯を天鷺郷と称し支配していたが、坂上田村麻呂に亡ばされたと伝えられている。

平安時代後期には、この地一帯は平泉藤原氏の影響下にあったと思われ、文治元年(1185)には、この地の由利八郎維友は、藤原秀衡の子の国衡の下に属したとされる。しかしこの地は、真坂氏や由利氏らの間でたびたび争乱が起きていた。

由利維平は藤原泰衡の郎従であったが、文治5年(1189)平泉藤原氏が滅亡したのち許されこの地を支配した。しかし同じ藤原泰衡の郎従であった大河兼任が鎌倉政権に対し兵を挙げ、建久元年(1190)維平は大河兼任によって討たれた。この乱は翌年3月には鎮圧され、維久がその跡を継いだが、建保元年(1213)の和田合戦において謀反の疑いを受け、所領没収となった。

しかしその後も由利一族はこの地で一定の力を保っていたようで、この城には由利氏の一族が拠っていた。しかしその後、正中元年(1324)由利氏は鳥海宗盛に滅ぼされ、一族もこの地を追われた。

しかし由利維久の曾孫である維貫は信濃国に逃れており、暦応2年(1339)、信濃の小笠原光貞らを伴い由利郡に入部、光貞は赤尾津氏を名乗り、この地に居館を築き一帯を支配した。

赤尾津氏は、由利地方では最大の領主となったようだが、それでも信濃から下向した小笠原一族を中心とした由利十二党が並立し争い、また周囲の大勢力である北方の秋田氏、東の小野寺氏、南の庄内武藤氏、さらに山形の最上氏らの影響を受けることが多く、情勢によってその去従は定まらなかった。

元亀3年(1572)には、大曲の前田氏が赤尾津氏を、天正2年(1574)には羽川氏を討ち取った。天正7年(1579)には逆に赤尾津氏、羽川氏らが大曲城を攻撃し落城させた。天正16年(1588)頃、赤尾津氏は羽川氏を欺き羽川新館を奪い、文禄元年(1592)には由利諸氏が由利十二頭の一人である矢島氏を攻めこれを追放した。

このような中で、時代の大きな流れは天下統一に向かっており、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに際して、赤尾津氏は関ヶ原合戦の折には、最上義光に従い山形まで出陣したが、西軍有利と判断し他の由利十二党とともに無断で帰国したために所領没収となったとされる。

その後慶長8年(1603)、由利本荘地域は最上義光の所領となり、家臣の楯岡満茂が赤尾津の地に入り、この地を居城と定めたが、慶長15年(1610)に居城を本荘城に移し、赤尾津城は廃城になったと考えられる。

元和8年(1622)、最上氏が改易になると、翌元和9年に信濃中村より岩城吉隆が2万石でこの地に入り亀田藩となり、山麓に亀田陣屋が築かれた。

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