秋田県由利本荘市矢島町城内字八森

震災前取材

 

別名:矢島城

八森山と呼ばれる東西に延びた比高約30mに築かれた平山城である。もとは、丘陵先端に築かれたが、その後順次拡張され、近世には陣屋が置かれた。現在の矢島小学校と矢島神社の境内が城跡で、現在残る遺構の多くは、近世の陣屋のものと思われる。

由利十二頭の一人の太井義久は、応仁元年(1467)、信州太井の庄から下向し矢島を領し、この八森台に築城し居城とした。

由利郡は、安東氏、小野寺氏、戸沢氏、大宝寺氏、最上氏などの大勢力に囲まれ、十二頭それぞれがこれら諸勢力と結びあるいは離れ戦国期にいたり、この地に大勢力が興ることはなかった。

四代満安は矢島五郎を称し、小野寺氏と結び、天正4年(1576)から大宝寺氏と結んでいた山根城主の仁賀保氏と数度にわたり激しく戦った。この間、満安は八森城から新荘城に移ったが、文禄元年(1592)、由利諸頭の総攻めにあい破れ、西馬内の小野寺茂道の許に逃れたが自刃し、矢島氏は滅亡した。

その後は、仁賀保氏が城代を置いて管理したが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後は、由利郡は最上義光の支配下に入り、矢島には最上氏家臣楯岡満茂の弟の満広が入った。

元和8年(1622)、最上氏が改易になり楯岡氏が去ると、徳川旗本となり常陸新宮に2千石を得ていた由利十二頭の打越氏が入ったが、寛文12年(1635)に、二代打越光久の没後継嗣なく断絶となった。その後の寛文17年(1640)、生駒騒動により改易となった讃岐高松の生駒高俊は、矢島1万石を堪忍料として与えられ矢島に入りその後幕末に至る。

慶応4年(1868)、戊辰戦争に際しては、矢島藩は秋田久保田藩とともに西軍に属し、このため、庄内の新徴組による鳥海山越えの奇襲を受け、矢島は戦場となり、奮戦むなしく陣屋を自ら焼き払い撤退した。明治新政府成立後、石直しにより1万5千石となり諸侯に復したが、その後廃藩置県により廃藩となった。

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