山形県酒田市亀ヶ崎一丁目

震災前取材

 

別名:東禅寺城

酒田は庄内地方の流通の要の地にあたる。文明10年(1478)、大宝寺氏が度々離反する砂越氏討伐のために、現在の酒田東高校の地に東禅寺城を築いたと伝えられる。

大宝寺義氏は越後の上杉氏の力沿えを得て庄内に威をはったが、庄内を強権的に支配しようとしたため家臣や領民から「悪屋形」と嫌われていた。山形の最上義光は庄内地方に進出するべく、砂越氏や来次氏など反大宝寺氏と結び天正11年(1583)反乱を起こさせた。大宝寺義氏は、妹婿の前森蔵人に兵を預けてこれを討伐しようとしたが、前森は逆に預けられた兵を率いて大宝寺義氏を討った。その後、前森蔵人は東禅寺筑前守義長を称し、東禅寺城に入った。

大宝寺氏は、義氏の弟の丸岡兵庫が継ぎ、大宝寺義興を名乗り、上杉との結びつきを強め、上杉の重臣本庄繁長から養子義勝を迎えた。これに対し最上義光は、東禅寺義長の手引きで大宝寺氏を滅ぼした。このとき養子の大宝寺義勝は小国城に難を逃れた。翌年、本荘繁長は実子の大宝寺義勝とともに庄内に侵攻し、十五里ヶ原の戦いで、最上、東禅寺軍を打ち破り、東禅寺氏は滅び本庄繁長が東禅寺城に入り実質的に庄内を支配した。

その後、豊臣秀吉の奥州仕置きに対して一揆が起き、本庄氏と大宝寺氏はこれを煽動した罪により庄内より追われた。庄内は上杉の直接支配となり、甘粕景継や志駄義秀が東禅寺城主として庄内を統治した。

しかし、関ヶ原の戦いの折に、上杉氏は西軍側として最上領に侵攻したが、関が原本戦での西軍の敗北により撤退した。慶長6年(1601)、関ヶ原の東軍の勝利に乗じて、義光は庄内になだれ込み、東禅寺城の志駄義秀を追い念願の庄内を手にした。

東禅寺城には長谷堂城の守将として上杉軍の主力から城を守り抜いた志村光安が入り、慶長8年(1603)、酒田に大亀があがり、亀の長寿を愛でて亀ヶ崎城と城名を改めた。しかし志村光安の跡を継いだ志村光清は最上家中の争いに巻き込まれ鶴岡城内で一栗兵部により暗殺され、最上藩は家臣団の争いの末に改易された。

最上の改易後は酒井忠勝が庄内藩主となり鶴岡に居城を置いた。周囲の外様大名を監視する役割から亀ヶ崎城も存続を許され、江戸時代を通じて城代を置き支配した。明治に入り、亀ヶ崎城は酒田県庁となったが、のちに合併で山形県が成立すると亀ヶ崎城は解体された。

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