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山形県酒田市砂越字楯之内

震災前取材

 

砂越城は平田町砂越に築かれた平城である。東西670m、南北440mの方形の平城で、長方形の土塁が残っている。

久寿元年(1154)に赤松氏の一族である石黒氏によって築城されたと伝えられる。文治5年(1189)、源頼朝は平泉征討で功があった砂越氏を出羽の郡司に任じ、当初は八幡にいたが、後にこの砂越城に移った。砂越氏は武藤氏の庶族ともされるがその出自は定かではない。

室町後期に砂越氏は、最上川以北の有力豪族として最上川以南を支配する大宝寺(鶴岡)の大宝寺氏と激しく争った。文明10年(1478)、砂越氏雄は将軍足利義尚に直参し信濃守に任官している。砂越城は永正10年(1513)大宝寺澄氏の攻撃で落城し、以後大宝寺氏の一族が入ったともいうが、砂越氏は再興されたようで、天文元年(1532)、大宝寺城を攻めて、大宝寺義氏を尾浦城に追っている。天正16年(1588)、十五里ヶ原の戦いで上杉、大宝寺氏と最上、東禅寺氏が激突し、この時砂越氏は最上側に属していたため没落した。

以後この城は、上杉氏、最上氏の持城になるが、元和二年(1616)に廃城となった。