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山形県寒河江市大字柴橋字金谷

2013/10/05取材

 

土佐壇は、寒河江市役所の南西方のこの地金谷にあり、足利幕府の沙汰人だった蜷川親俊の墓と伝えられる。

蜷川氏は、物部氏の後裔とされる。室町時代の足利義政、足利義尚時代に、政所執事代を務めていた。この時代は、幕府将軍、幕府管領から守護大名らが内部抗争に明け暮れ、次第に乱世へと移り変わる時期にあたっていた。そして、応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発、そのような時期の文明5年(1473)に政所代に就任した。

応仁の乱以降、世の中は戦国動乱の時代となり、下剋上が横行し、幕府将軍の足利氏の権威は失墜していた。蜷川親俊、親長父子は、足利義輝に仕え、丹波の船井郡桐野河内を本領としていた。

戦国時代の荒波のなかで、蜷川氏は丹波を守っていたが、永禄5年(1562)、政所執事の伊勢氏が三好氏に討たれたことで逼迫し、出羽国庄内藤島城主土佐林禅棟と、庄内下向について計画を始めた。永禄8年(1565)、将軍足利義輝が、三好三人衆・松永久秀らの謀叛によって殺害された。これにより、親俊は所領を捨て、落衣(おとも)の館主高松左門を頼って、この地に下った。

親俊はここで数年間暮らし、永禄11年(1568)に没した。この地の土佐壇が親俊の墓と伝えられ敬い、人々は不運の親俊を慰めた。

長男の蜷川親長は四国に逃れ、長宗我部元親、後に徳川家康に仕え、子孫は旗本として蜷川氏の血脈を残した。