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山形県鮭川村大字京塚字市の坪

2012/07/06取材

 

京塚館は西側に張り出した、比高約30mの尾根の先端に築かれた、小規模な単郭の山城である。東へ続く尾根を堀切で遮断し、堀切に面して土塁の付いた主郭を先端に置いている。背後の堀切は広く、南北両方に連続竪堀が設けられている。主郭周囲には腰曲輪もいくつか築かれているが、要害性は大きいとは言えない。

築城年代は定かではないが、天正年間(1573~92)に、豊臣秀吉との争いに敗れた柴田勝家の一族、柴田兵庫之介がこの地に逃れてきて居城としたと伝えられている。

その後、慶長年間(1596~1615)には、清水城主の、清水大蔵大輔義親が柴田氏を滅ぼし、清水城の北端拠点の重要地として、その家臣の武田河内を館主としたと言う。鮭川対岸には、庭月広綱の庭月館があり、それに対向する拠点であったとも言われている。