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山形県鶴岡市湯温海

2012/03/30取材

 

開湯は約1300年前とされ、役小角が発見したと伝えられる。また、弘法大師が発見したとする説や、鶴が傷ついた脛を浸していたところを発見したとする説もある。温海の名の由来は、温海川の川底から湧出した温泉が日本海に流れ込み、近辺の海が温かかったことに由来するとされる。

鎌倉時代後期には既に湯治場が形成されており、江戸時代には庄内藩主が度々利用することから湯役所が設けられた。また、付近の大清水公園の湧水は「御清水」と呼ばれ、庄内藩の藩主が湯治に来たときに供された清水とされる。

江戸時代初期には広く知られていたようで、奥の細道を松尾芭蕉とともに辿った曽良は、浜温海で芭蕉と一旦別れ、わざわざ湯温海に足を延ばし、旅の疲れを癒している。当時はすでに浴客を収容する宿屋が並び、温泉地の情景を見せていたようだ。また湯治客が食材を買うための朝市は、約260年前から始まり、今日も続いている。

古くから文人墨客が訪れた場所であり、与謝野晶子、横光利一、斎藤茂吉などが訪れた。特に横光利一は、妻の千代の故郷が鶴岡市であったことから、度々この地に逗留し起筆していたが、大変朝市が好きで、随筆に「狩猟をするような楽しみを感じ、食べもせぬものまで矢鱈に買いすぎて、細君に叱られた」とある。

第二次世界大戦中には、東京都江戸川区小岩地区の6国民学校から、約1600名の疎開児童を暖かく受け入れた。当時の疎開児童らは、厳しい時代の中にありながら、その印象は強かったようで、熊野神社境内に学童疎開記念碑が有志により建立されている。

昭和26年(1951)、温泉街の民家から出火し、折からの強風で温泉街を焼き尽くす大火となり、全戸数427戸のうち251戸が全焼した。現在の温海川河畔の桜並木は、その復興を記念するものとして植樹されたもので、現在はこの地の桜の名所となっている。