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山形県高畠町亀岡…亀岡文殊参道

震災前取材

 

亀岡文殊堂の参道途中に「高梨利右衛門供養碑」が建つ。南無阿弥陀仏と朱塗りの文字が刻まれ、側面には極重悪人…と朱塗りで刻まれている。これは寛文目安越訴事件の盟主高梨利右衛門の供養碑である。

江戸時代、高畠は屋代郷と呼ばれていた。屋代郷は米どころとして幕府直轄の天領だったが、一時期、米沢上杉藩に預かりとなった。米沢藩は、厳しく年貢の取立てを行い、このため人々は途端の苦しみに合い、食うに食えない状況になってしまった。

利右衛門は、屋代郷二井宿村の肝煎であったが、里人の苦しみを救うため、盟主として福島信夫の幕府代官所に、この米沢藩の年貢徴収の過酷さ、専売制の不合理を訴えて幕府直轄地への編入を直訴した。このことにより屋代郷は幕府直轄の天領として復活し、人々の生活は守られたが、当時直訴は獄門磔と決まっており、利右衛門は二井宿村で磔にされた。

屋代郷の人々は、利右衛門の直訴を義挙として称え、幕府や米沢藩をはばかりながら、極重悪人と刻みながらも彼の供養碑を建てた。