スポンサーリンク

山形県高畠町安久津…(安久津八幡神社境内)

震災前取材

 

江戸時代、高畠町は時期や地域により、幕府の天領、米沢藩、高畠藩とめまぐるしく動いた。

高畠町の屋代郷一帯が、幕府の天領であった時期の宝暦、明和年間は水害、旱害、冷害に悩まされ、大不作が続いていた。その上、天明3年(1784)には、岩木山、浅間山が爆発し、その影響で全国的に凶作となり、寒冷なこの地は大凶作となり餓死者も出るほどだった。

この地の代官の山中太郎右衛門は、この民苦と窮状をさっし、独断で上米蔵を開き施米とし、多くの村民を救った。太郎右衛門はこのことを幕府に上申するために江戸へ旅立つことになり、切腹をも覚悟していた太郎右衛門は、「一切の責任は我にあり。我もし帰らずば、念仏一遍も唱えてほしい」と言い残し旅立った。しかし、山中代官の至誠は幕府当局を動かし、免租の恩命さえ下りた。

この恩を称して、安久津村、新宿村、竹森村、深沼村の村民が感激を後世に遺すべくこの報恩碑を建てたと伝える。