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山形県長井市上伊佐沢

震災前取材

 

別名:お玉桜、四反桜

久保桜はエドヒガンの巨木で、目通り9m。天保、弘化年間(1830~47)の頃は、枝が4反歩(40アール)に広がり、「四反桜」の名で親しまれていた。

しかし、幕末の頃、物乞いをしながら旅をしていた者が、桜の根元の洞に宿り炊事をしたところ、火は朽ちた部分を燃やし、そのため、大枝2本、その他の枝が枯れ、樹形が一変してしまった。その後、この地の人々は残った枝に支柱を立て、柵をめぐらして桜の保護を続け、現在では60本余の支柱が久保桜を支えている。

この桜には、次のような伝説が伝えられる。
延歴16年(797)、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征討のために奥羽に兵を進め、この地に来た際に、この地の豪族久保氏の娘のお玉が将軍の世話をした。二人はやがて恋仲になったが、将軍は京へ戻らなければならなかった。将軍が帰国すると、お玉は追慕の思いに嘆き悲しみ、翌年ついに病没した。将軍は この知らせに接し、一株の桜をお玉の墓に手植えして、その墓標としたと云う。

また、戦国の時代、この地に住んでいた伊達の家臣の桑島将監は、その妻と子を亡くし、その供養のためにこの桜を植えたとも云う。