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山形県山辺町畑谷~白鷹町中山

震災前取材

 

狐越街道は、庄内から最上川の舟運で運ばれた物資は、一旦山辺町におろされ、ここから狐越街道を経由して白鷹山を越えて西置賜地方に輸送された。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに伴い、米沢城将直江兼続は上杉の本隊2万の兵を率い、この街道を通り最上領に侵攻した。上杉勢は畑谷城、山野辺城を落とし、次いで長谷堂城を囲んだ。しかし最上勢の抵抗は強く、長谷堂城 は半月経っても陥落することはなかった。

その間に関ヶ原本戦では、西軍が敗北し、上杉勢は長谷堂城の囲みを解き急遽撤退した。

最上勢は反撃の気勢を強め、狐越街道を撤退する上杉勢を追撃し、上杉勢は最上の追撃を受けながらも、その退却戦の見事さは後に敵味方ともに称賛するものであった。