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山形県山辺町大寺

震災前取材

 

武田信安は、甲斐源氏武田信玄の祖父の弟に当たる。最上家がかつて、武田家と共に足利幕府で要職だった誼を頼り、出羽の地に下向した。宝徳元年(1449)、最上義春に川西に封じられ高楯城主となった。

この地に入った信安は、この地の水利の便が悪いことを知り、宝徳3年(1451)、玉虫沼の築堤に着手した。沼の周辺は、五百川の岸氏の領地であったため、自領と交換し水源地を確保し、領内の水田の灌漑を容易にし、農耕を盛んにした。また高楯城を整備し、川西地区の先端に位置する立場を強めた。

寛正元年(1460)、幕府と古河公方の対立が続き、足利幕府は古河公方討伐を関東、奥羽の諸将に命じ、これを受けて山形最上氏は出羽の豪族に動員令を出した。信安はこれに応じて出陣したが、このときの葦名戦争では利あらず多くの家臣を失い、戦後、世の無常を悟りこの鬼の目山谷に入り仏門に帰依したという。

その後、越前の本願寺に蓮如上人を訪ねて修業し浄土真宗の奥義を極め帰国し、この地に草庵を営み、後に高楯の了広寺の基を創り、81歳で没した。人々は信安の治世に感謝し、賜主明神と崇敬し、この草庵のあった地に霊廟を建てたと伝えられる。