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山形県山形市平清水

震災前取材

 

山形市街地東部に千歳山という山がある。この千歳山の万松寺に阿古耶姫の墓がその伝説とともに伝えられている。

陸奥信夫郡の郡司に藤原中納言豊充というものがいた。その娘に阿古耶という大層美しく、また詩歌や琴が大変上手な姫がいた。ある春の夜、阿古耶姫は、都を遠く離れた寂しさをまぎらわすために夜桜越しに月を眺めながら独り琴を弾いていた。するとどこからともなく笛の音が流れてきた。

阿古耶姫は不思議に思い見上げると、一人の若者が松の木の陰に笛を手にして佇んでいた。この夜からたびたび若者は姫をたずねて来るようになり、いつしか二人は恋仲になり逢瀬を重ねるようになった。

若者の名は名取左衛門太郎といった。
こうして歳月は過ぎていき、虫の鳴くある秋の夜、名取太郎はいつになく打ち沈んでいる様子だった。姫が尋ねると、「実は私は千歳山の年老いた松の木の精霊で、明日切られて名取川の橋材になる運命なのです」と語り姫に別れを告げた。

姫は驚き、嘆き悲しんだが、翌日には松の木は切り倒されることになった。しかし松は切っても切っても翌朝には切り口が元に戻り、なかなか切り倒されなかった。しかし切り口から出たおがくずが無くなっているのに気付いた者がおがくずを燃やすようになると、松の切り口は塞がらなくなり、ついに松は切り倒されてしまった。

ところが今度は大勢の里人が引こうが押そうが松の木はみじんも動かない。困った里長が神様に祈ると、「信夫の館に阿古耶姫という者が居る。その娘の手を借りなければ動くまい」と告げられた。里人達は阿古耶姫を松の木のところに連れてくると、姫は倒れた松の木を見て咽び泣くばかりだったが、太郎の面影を偲びつつ松に手を触れると松はするすると動き出した。

国境の峠まで来ると、老松の精はふたたび名取太郎の姿となり「私は名取の橋となり人々に尽くすのが定めです。あとはどうか私の菩提供養をしてください」と姫にささやいた。姫も「あなたの願いは必ず果たします」と応え名取太郎に囁きかけた。

これを見た里人たちは、その峠を「ささやきの峠」と呼ぶようになり、いつしか「笹谷峠」と呼ばれるようになった。また姫は帰ってから、伐られた松の木の跡に若松を一本植え、傍らに庵を結び名取太郎の霊を弔い、そこで生涯を終えたという。

「消えし世の 跡問ふ松の 末かけて 名のみ千歳の 秋の月影」 阿古耶姫

「みちのくの 阿古耶の松に 木隠れて 出でたる月の 出でやらぬかな」 夫木抄

 

・藤原実方の墓

この地には阿古耶姫の墓と並び藤原実方の墓も残る。

藤原左近衛中将実方は紫式部の「光源氏」のモデルとも伝えられる歌人だったが、一条天皇の御世に歌会の席で口論したことにより天皇の怒りに触れ、「歌枕見てまいれ」という命を受け奥州へ下った。奥州へ下った後、各地の歌枕の地を見てまわり、阿古耶の松を見ての帰り、宮城県名取郡笠島の道祖神の前で、里人らの注意を聞かずに下馬をせずに進み、落馬して命を落としてしまった。

「みちのくの  阿古耶の松を 尋ねわび 身は朽ち人と なるぞかなしき」 中将実方

実方は亡骸を千歳山の阿古耶の松傍へ葬ることを遺言したと云い、宮城県名取笠島の他にこの千歳山にも墓があり現在まで伝えられている。

 

・十六夜姫の墓

藤原実方の娘の十六夜姫は、父をたずねて奥州に来て父の死を知った。父が阿古耶の松の傍らに葬ることを遺言したことを聞きこの地を訪ねた。ようやくのこと千歳山まで来て、ふと小川の水に我が身を映して見ると、長旅にやつれた自分の姿が移った。姫はこれを嘆き、

「いかにせん 映る姿は つくも髪 わが面影は 恥しの川」  中将姫

と詠んだと伝える。万松寺には、姫の建てた実方の墓と並び、姫自身の墓もある。