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山形県山形市霞城町…霞城公園内
震災前取材

山形城址の霞城公園の一角にある、旧済生館の建物の脇に、少し目を引く縦に長い石がある。この石が、かつて最上義光に山形城内で謀殺されたという白鳥十郎の首を置いた石と伝えられる。

白鳥十郎長久は、最上義光の時代、寒河江氏、天童氏と結び最上氏の圧力に対抗しようとしていた。十郎長久は先祖伝来の白鳥城から谷地に居城を移し、さらにその勢力を拡大していた。
天正5年(1577)、十郎長久は織田信長に名馬白雲雀を献上し、信長はこれをいたく喜び、返礼として書状とともに虎皮や豹皮など長久に贈った。また、出羽探題を任命され、緋縅の鎧を拝受したとも伝えられる。十郎長久は奥羽の地にありながら、中央の政治動向に通じ、天下の情勢を的確に判断していた。そして織田信長に従属することで、最上義光に対抗しようとしたのだろう。

このような十郎長久の行動は、当然ながら最上義光を刺激した。このとき義光は天童氏を武力によって制圧したが、白鳥氏に対しては、十郎長久の武略を警戒し、婚姻による懐柔策をとった。義光は11才になる姫を白鳥十郎に嫁がせて和をむすんだ。最上氏と白鳥氏は姻戚関係となり、義光は十郎長久を山形城に招いたが、長久は義光の謀略を警戒してそれを受けなかった。

そのため義光は重病と偽り、再三にわたり十郎長久に使いを送った。ついには「死後、幼い嫡男義康の後見役を頼みたい」とし、長久を山形城に誘った。一時、長久は疑ってはいたが、自分の幼い妻の父ということもあり遂に山形城に出向いた。

長久の家臣たちは玄関の庭先で待たされ、十郎長久は最上義光の家臣2人に付き添われ、義光の寝ている奥の間に案内された。病床には義光が寝ており、長久が見舞いの言葉を口にするやいなや、2人の最上義光の家臣は、長久の狩衣の袖とすそに4寸釘をつきさし十郎長久の動きを奪い、そこを義光はふとんの下に隠してあった刀を取り出して袈裟切りに切りつけて首をはねた。

この奥の間の騒ぎを聞きつけた長久の家臣たちも、義光の家臣たちに囲まれ、切り死にした。この時に飛び散った血は庭の桜の木を赤くそめ、この血でそまった桜の木がのちに「血ぞめの桜」と伝えられた。

その後、十郎長久の居城の谷地城は、最上義光により直ちに攻められ落城した。義光の娘で十郎長久の妻は、自分の父とはいえ夫を殺した父義光を憎み、城を抜け逃れて身を隠した。その後義光に探し出され、義光に帰参をすすめられたがこれを断り、夫白鳥十郎の菩提を祈り谷地の寺に入った。

また義光は、十郎長久が出羽探題の証として織田信長より送られた緋縅の鎧を探したが、鎧は長久の家臣たちにより隠され、遂に探し出すことは出来なかったという。この鎧は伝説だけを残し、今もその行方は知れない。