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山形県山形市蔵王成沢
震災前取材

南北朝時代の延文元年(1356)、最上氏の祖の斯波兼頼は山形に入部し山形城を築いた。その後、永徳元年(1381)、兼頼の孫の兼義が成沢の泉出に城を築いた。その2年後、ご神託により山頂の八幡宮を現在地に移し、その跡地に城を築いたと伝える。

城は、高さ72間、南北17間、東西45間とあり、山形城南方の守りの第一線として重要な城だった。成沢地区の中心高台にあり、山形城、長谷堂城、さらには上山方面を一望できる地である。西は急斜面、麓には鳴澤川を天然の内堀として、さらに外堀をめぐらしてあったと云う。

戦国期には成沢道忠が城主となり、成沢の常善寺に手植えの桜を残したという。天正6年(1578)、最上義光と上山満兼とが、松原柏木山で戦った際には、この城は山形防備の前線となった。その後、最上義光の懐刀、氏家守棟が城主としてこの地を守った。元和8年(1622)、最上家が改易になると廃城となった。