山形県河北町谷地字内楯

震災前取材

 

谷地城は現在の山形県河北町の中心部にあった平城である。もとは中条氏の居城であったが、六代目の中条長昌は子が無く、永禄年間(1558~70)、村山の白鳥城の白鳥十郎長久に城を譲ったと伝えられる。

白鳥氏の出自は定かではないが、前九年の役で安倍氏が滅んだ際、安部頼時の八男行任の子則任が出羽の葉山に逃れ、葉山修験の勢力を背景にして勢力を蓄え、白鳥氏を称したものとも伝えられる。

白鳥長久は谷地城下の整備を行い、天正2年(1574)には最上義守、義光父子の内紛を仲介するなど、最上川以西に一定の勢力を築いていた。また天正5年(1577)には、織田信長に使者を送り名馬「白雲雀」を献上するなど独自の外交も行っていた。これは、出羽統一を進めている最上義光にとって看過できるものではなかった。

最上義光は、嫡男の最上義康と長久の娘の縁組を持ちかけ、さらに天正12年(1584)、病のために後事を託したいと偽り、長久を山形城に誘い出し斬殺した。義光の姦計により主を失った谷地城は直ちに攻め込まれ落城、谷地城は最上義光に支配されることとなった。その後慶長5年(1600)の出羽合戦では、庄内から攻め上った上杉別働隊により攻略された。

谷地城跡は現在は河北町の中心部にあたり、遺構はほとんど残っていないが、わずかに三社宮に本郭の土塁が残されており、ここに城跡の碑が建てられている。

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