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山形県河北町谷地乙…東林寺

震災前取材

 

最上地方に勢力を築きながら、最上義光に謀殺された白鳥十郎の墓は、白鳥氏の菩提寺である東林寺の境内にある。

戦国期、出羽最上地方は最上氏、天童氏、寒河江大江氏、そして白鳥氏らが割拠していた。それに、米沢の伊達氏、庄内の武藤氏らの大勢力が周辺に勢力を拡大しつつ、最上地方を狙っていた。

白鳥氏の出自に関しては、「前九年の役」に敗れた安倍頼時の八男行任の子則任の後裔とする説が伝えられているが、地元出身の豪族とする見方もあり定かではない。

南北朝期には、白鳥氏は寒河江氏とともに南朝方に属して活動、寒河江氏とは緊密な関係にあった。白鳥氏は南北朝期の争乱を生き抜き、戦国期には寒河江氏との関係を維持しながら、最上氏と結ぶなど、一定の勢力を保持していたようだ。

白鳥十郎長久は、最上義光の時代、寒河江氏、天童氏と結び最上氏の圧力に対抗しようとしていた。白鳥十郎は先祖伝来の白鳥城から谷地に居城を移し、谷地城を大改修すると同時に城下町を整備し、農業はもとより諸工業生産の保護奨励にも力を入れ、城下に鋳物師や刀鍛冶、大工などの職人を住まわせた。また、家臣を城下に住まわせ、市場を開設し、商業の隆盛にも力を注いだ。

天正5年(1577)、十郎長久は織田信長に名馬白雲雀を献上し、信長はこれをいたく喜び、返礼として書状とともに虎皮や豹皮などを贈っている。十郎長久は奥羽の地にありながら、中央の政治動向に通じ、天下の情勢を的確に判断していた。そして織田信長に従属することで、最上義光に対抗しようとしたのだろう。

このような十郎長久の行動は、当然ながら最上義光を刺激した。このとき義光は天童氏を武力によって制圧したが、白鳥氏に対しては、十郎長久の武略を警戒して、婚姻による懐柔策をとった。

最上氏と白鳥氏は姻戚関係となり、義光は十郎長久を山形城に招いたが、十郎長久は義光の謀略を警戒してそれを受けなかった。そのため義光は重病と偽り、「今後のことを十郎長久に託したい」と再三にわたり十郎長久に使いを送った。天正12年(1584)、十郎長久は、家臣たちには反対の声もあったが、ついに山形城に出向いた。義光の枕許に案内された十郎長久は、義光から一巻の書を差し出され、それを受取ろうとしたところを斬り付けられ斬殺された。

十郎長久を謀殺した最上義光は、直ちに白鳥氏の家臣らが篭る谷地城を攻めてこれを攻略、ついで白鳥氏と同盟関係にあった寒河江氏も攻め滅ぼし、最上地方を手中にした。白鳥十郎長久が殺害されたのちの白鳥氏の動向については、いまに伝わるものはない。