山形県東根市本丸南一丁目

震災前取材

 

別名:小田島城

現在の東根小学校が東根城本郭の跡である。南北朝期の貞和3年(1347)、小田島長義が築城したと伝えられる。小田島氏は、鎌倉幕府の頼朝以来の御家人だったが、北条氏との争いに敗れ、領地のこの小田島庄に逃れ居を構え小田島氏を名乗った。しかし足利尊氏の時代、小田島庄は清川の結城顕朝に換給され、小田島長義は新庄小田島に城を築き、尊氏の支配下に入った。

その後応永2年(1395)になると、天童城主里見頼直は、四男頼高を小田島城に配し、頼高が東根氏の祖となった。その後180年間、東根氏がこの地を支配し、その間東根は着々と整備された。

東根小学校、中央公民館の場所が本郭で、小学校正門前の上り坂が大手坂で、両側には水堀が配されていた。本丸の北に小楯、西に西楯と水堀をめぐらして、南と東には日塔川、白水川を天然の濠とし、鬼門の守護神として若宮八幡神社と薬師如来を配した。また一日、三日、六日、八日町には市がたち、いまでも町名として残っている。また道は「一丁隠し」で、一丁ごとに曲がっており、その名残は町中に今でも残る。

東根氏は天童氏を盟主として最上八楯を形成し、山形の最上義光に対峙していた。これに対し出羽統一を目指していた最上義光は、天正12年(1584)天童城を攻めた。この時の東根城主は、天童城主の天童頼久の次男頼景を養子にしていたために、山形勢の攻撃を受け奮戦したが、東根氏一族で重臣の里見景佐 が最上氏についたこともあり(異説あり)落城した。その後は、里見景佐は最上義光に臣従し城主となり東根氏を名乗りこの地を支配した。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いを期とした出羽合戦の折に、上杉勢の別働隊の酒田城将志駄義秀、尾浦城将下吉忠が寒河江、谷地に攻め込んだ。この地には 尾浦勢が攻め込み、主力が山形に参じていたために守勢は少なかったが、東根温泉街道の近くの鷺の森合戦で撃退した。

その後最上家は改易になり、東根城は廃城となり、東根氏(里見氏)は四国蜂須賀家に身柄を預けられた。その後寛文元年(1661)には東根は幕府の直轄領となって城跡には陣屋が置かれた。

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