山形県大蔵村合海

震災前取材

 

この最上川流域 に位置する合海集落は、戦国時代末期に、この地の領主の清水氏の河岸拡大整備の一環として、新たな合海河岸をつくりために本合海村の人々を移住させて成立したと伝える。清水義親は、1ヶ月の内17日は、すべての荷を合海河岸に荷揚げするように命じるなど、合海河岸の振興をはかった。

最上氏改易後も、合海は、庄内と山形を結ぶ水陸兼帯の交通の要衝として、庄内、松嶺、矢島藩などの参勤交代の乗降が行われた。この社の脇を通り最上川の船着場に抜ける道は御手船小路と呼ばれ、一般の歩行は禁じられており、付近には「御手船蔵」が建ち並び大いに賑わった。

明和から寛政年間(18世紀後半)は、この地の舟運は御用商人の伊藤五郎兵衛が仕切り、数十艘の舟を持ち、これを数艘ずつに分け「いろは組」と呼んでいた。

当時の最上川は、内陸と庄内を結ぶ非常に有効な交通機関であり、五郎兵衛は、永松銅山の銅、米、木材、紅花等の川下げを行い、大阪の豪商との取引も行っていた。その最盛時には、藩に多額の金を用立てする程であった。

この金刀比羅神社も、五郎兵衛の持ち舟が日本海を航海中に、不慮の海難にあい危機に陥ったとき、日頃信仰する琴平宮が現れ、進路を授けられ難を免れたことから、五郎兵衛が讃岐の琴平宮から分神を受けてこの地に祀ったと云う。

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