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山形県鶴岡市丸岡

震災前取材

 

加藤清正は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍として九州に留まり、黒田如水と共に九州の西軍勢力を次々と破った。戦後の論功行賞で、肥後の小西行長領を与えられ52万石の大名となった。徳川家康の実力を認め、徳川政権下で尾張名古屋城の普請に協力するなど家康に尽くしたが、同時に豊臣家への恩義を忘れず、豊臣家の存続にも心を砕いていた。

慶長16年(1611)3月、二条城で徳川家康と豊臣秀頼の会見を取り持ち和解を斡旋したが、このとき秀頼が暗殺されることを恐れ懐剣をしのばせていたという。この会見の後の帰国途中、船内で発病し同年6月、熊本で死去した。この清正の急死は、家康による毒殺とする説もある。享年50歳だった。

清正が亡くなると、その後を弱冠十歳の忠廣が継いだ。しかし寛永9年(1632)、忠廣は突然幕府から身に覚えのない嫌疑をかけられた。その嫌疑の内容は曖昧なものであった ようで、有力外様大名だった加藤氏を恐れ、強引に改易させたものと見られる。

申し開きの為、江戸へきた忠廣は、参府を許されず、そのまま庄内に配流された。家族のうち忠廣に同行を許されたのは生母の正応院のみで、妻や子、兄弟は四散した。酒井氏預りとなり、酒井氏は丸岡一万石を捨扶持として忠廣に与え、丸岡城 跡に忠廣とその生母を住まわせた。

忠廣と正応院は、清正の遺骨を密かに捧持し、居館奥庭の太夫石の元に治め、後に天澤寺世代墓地の五輪塔の元に安置した。昭和24年の調査では、この地の清正閣の下から清正公着用と推定される鎧が出土した。また、小さな五輪塔は、密かに野に下した忠廣の子供のものと言われている。忠廣は、許されることの無いまま死去し、加藤家はここに終焉した。

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