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山形県金山町

震災前取材

 

山形県金山の地には、かつて平弋(ひらほこ)駅が設置されたと伝えられる。

天平9年(737)、陸奥按察使兼鎮守将軍の任にあった大野東人(おおののあずまびと)は、多賀柵から出羽柵への直通連絡路を開通させる目的で、騎兵約200騎、鎮兵約500、陸奥国兵約5000を率いて蝦夷制圧に出発した。奥羽山脈を横断し、多賀城から秋田城へ向かっていた東人は、比羅保許(ひらほこ)山に駐屯した際に、雄勝の蝦夷の長が恭順のため訪れたと云う。東征の後、秋田城へ向かう官道が開削され、天平宝字3年(759)に平弋(ひらほこ)駅が設置された。

「ひらほこ」の地については諸説あるが、アイヌ語の「ピラポク(崖の下)」の意味から来たもので、比羅保許(ひらほこ)山とは、雄大な断崖を形成している竜馬山ではないかと考えられている。

この地には、もう一つ興味深い伝承がある。

この地に、「比良穂城」あるいは「比良穂柵」なる古代の城柵があり、この地に従者とともに嵯峨天皇が一時とどまり、嵯峨天皇が都に戻るときに、従者の何人かがこの地に残ったとする伝承が、その子孫とする方々に伝えられている。

嵯峨天皇の在位は、大同4年(809)~弘仁14年(823)である。この時期に奥羽の地と大和朝廷との関わりでは、坂上田村麻呂が、征夷大将軍として蝦夷を討ってこれを下し、延暦21年(802)に胆沢城、翌延暦22年に志波城を築いた時期である。嵯峨天皇の時代の城であれば、それは蝦夷に対する大和朝廷の城砦と推測できる。

延暦22年(803)頃、秋田方面で蝦夷の抵抗が激しくなり、秋田城はその機能の一部を停廃止し、政庁を山形の庄内(城輪柵?)に移した。この平弋の地は、多賀城に抜ける官道と庄内に抜ける道の分岐点にあたり交通の要衝の地だった。この地に蝦夷に対しての「柵」が設けられたと考えるのは至極妥当だ。

五十二代嵯峨天皇は、桓武天皇の第二皇子で、五十一代平城天皇の同母弟になる。大同元年(806)に即位した平城天皇と父の桓武天皇との折り合いは悪かったようで、平城天皇には二人の皇子がいたが、即位の際には、桓武天皇の意向により、嵯峨天皇が皇太子となった。平城天皇は、皇太子時代から藤原薬子と不倫の仲になり、さらに薬子は他の貴族とも通じていたとされ、桓武天皇はこれに怒り、薬子を東宮から追放した。

しかし、桓武天皇が崩御し平城天皇が即位すると薬子は戻され、再び平城天皇の寵愛を受けるようになった。そして薬子の夫の藤原玉縄は九州へ飛ばされ、薬子は兄の藤原仲成とともに政治に介入し専横を極め、兄妹は人々から深く恨まれた。
病気がちだった平城天皇は嵯峨天皇に譲位し平城京に移ったが、藤原仲成と薬子は、退位した平城上皇の複権を目的に平城京遷都を謀った。これに対し、嵯峨天皇は薬子の官位を剥奪し、平城上皇は薬子とともに挙兵のために都を逃れる途中、坂上田村麻呂により阻止され、平城上皇は敗北をさとり剃髪し、薬子は自害、藤原仲成は殺された。これがいわゆる「薬子の変」である。

この薬子の変の中で、嵯峨天皇の身には危険が伴っていただろうと思われる。特に、父の桓武天皇が崩御した大同元年(806)から嵯峨天皇の即位の大同3年(809)までの3年間は、嵯峨天皇にとっては非常に危険な時期だったと考えられる。平城天皇はすんなりと譲位したわけではないだろうことは当然で、結局譲位に至ったのは、坂上田村麻呂をはじめとした、薬子、藤原仲成の専横を良しとしないものたちが、平城天皇を退位に追い込んだと思われる。

このような時期に、征夷大将軍の坂上田村麻呂が、桓武天皇の意を受けて、暗殺される恐れがあった嵯峨天皇を、その勢力圏の山形県金山「平弋」の地の「比良穂柵」に匿ったとも考えられる。

このような朝廷内の争いの際には、奥羽の「辺境」の地は、宮廷人の避難の場所として史実として、あるいは伝説として良く出てくる。古くは出羽三山を開いたとされる蜂子皇子、南北朝期に多賀城に下った後村上天皇、は現在定説になっており、伝説としては染殿后藤原明子、護良親王、長慶天皇など挙げれば枚挙にいとまがない。

この地に伝えられるこの伝承も、古代のロマンを誘うものとして興味深いものである。

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