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山形県遊佐町吹浦字三崎

震災前取材

 

三崎峠は、実質的に羽前と羽後の国境になっていた。峠下の女鹿集落には庄内藩の番所が置かれていた。

戊辰戦争の折に、秋田久保田藩は奥羽越列藩同盟に加わっていたが、藩論はなお流動的で、新政府の九条総督が久保田藩に入ると尊皇攘夷派が勢いづき始めた。奥羽越列藩同盟の盟主であった仙台藩は、久保田藩の真意を確認するため使者7名を派遣した。しかし、久保田藩の尊皇攘夷派は、仙台藩の使者と盛岡藩の随員を全員殺害、なし崩し的に列藩同盟を離脱して、新政府側へ付き、久保田藩は東北地方における新政府軍の拠点となった。

久保田藩に続いて、新庄藩、本荘藩、矢島藩、亀田藩も新政府側に付き、これらの勢力に対しては、庄内藩が中心となって戦うことになった。当初、庄内藩は酒田の本間家の尽力などで、新式の装備を持ち、兵も精強だった。慶応4年(1868)7月、新庄に向かった庄内藩は、戸沢氏の居城の新庄城を一気に攻め落とした。また日本海側から久保田藩に迫った庄内勢は、三崎峠で亀田藩等西軍と激戦を行いこれを破った。

庄内藩は日本海側と新庄側から同時に久保田藩に迫った。久保田藩は新政府軍と共同で防衛戦を行うも劣勢で、領内深くまで攻め込まれた。しかし、9月になると、米沢藩、仙台藩が降伏したため、9月19日、庄内藩は一斉に領内へ撤退した。新政府軍は「庄内、秋田戦線」の兵力を増強し、庄内藩は防衛線を引き、一進一退の攻防が続いたが、9月22日、会津藩が降伏、9月24日、ついに庄内藩も鶴岡城を開城し恭順した。

三崎峠で戦死した庄内兵の遺体は、見せしめのために引き取ることを許されず放置された。そのため三崎山には、無数の白骨が転がるという有様が永く続いた。戊辰戦争から50年近く経った大正3年(1914)、遺骨はようやく拾い集められ、それは、4ダース入り大型ビール箱二つが満杯になるほどだったという。

拾い集められたおびただしい量の遺骨は、供養した上で翌年秋彼岸、この地に埋葬された。この供養塔はその時建てられたもので、無名の藩士たちの墓碑となっている。