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山形県遊佐町直世字仲道…永泉寺

震災前取材

 

この永泉寺境内にある石造多層塔は、酒田亀ヶ崎城に3万石を領した最上氏重臣の志村光安(しむらあきやす)の供養塔で、慶長16年(1611)に建立された。塔の四方には、四智四仏の尊像が刻まれ、正面に「前豆州太守為天皇良清公大禅門菩提……」とあるが、家臣21名の刻名とともに摩滅して明らかではない。

志村氏は、最上義光に最上家の主権が移った比較的早い段階からその名が見え、最上家の直臣衆であったと思われ、山形市の北部の漆山地区の邑主だったと考えられている。

光安は伊豆守を称し、武勇に優れ、最上家の勢力が伸張する天正以降においては、その主要な合戦のほとんどに出陣している。また弁舌も巧みであったらしく、最上義光の名代として織田信長に拝謁したとも云う。また、義光の白鳥十郎の謀殺においても、谷地の白鳥氏の許に使者として出向いており、小田原の豊臣秀吉のもとにも使者として出向いている。

慶長5年(1600)の出羽合戦の際には、直江兼続率いる上杉軍2万に対し、光安は主将として長谷堂城に篭り、鮭延秀綱らの支援を受けながら、伏兵などを駆使して直江兼続の軍勢と果敢に戦い城を守りきった。その後、狐越街道を撤退する上杉軍に対する追撃戦や、上杉軍の志田義秀が籠もる酒田の東禅寺城攻撃にも加わり、戦後、酒田を中心とし3万石を領した。慶長8年(1603)、酒田に巨大海亀が上がり、これを最上義光に報告し、義光はこれを吉兆として東禅寺城は亀ヶ崎城、大宝寺城は鶴ヶ岡城と改めたというエピソードが残る。

光安は、庄内における寺社の復興、羽黒山五重塔の修造等にも努めたりするなど、最上氏の庄内統治の中心的な役割を果たしていたようだが、慶長16年(1611)没した。その後は嫡子の志村光清が継いだが、光清は慶長19年(1614)、最上氏の内紛で、最上義光三男の清水義親に近い一栗兵部の手にかかり殺され志村の嫡流は途絶え、その所領は最上氏の蔵入り地になったと考えられる。

その後山形最上藩は改易され、残された一族は山形藩の家老となり、その後江戸に移り、水野忠邦の第一家老などを勤め明治に至った。また、東根で帰農し横尾姓を名乗り、代々郡中総代名主を勤めた系譜もあると云う。