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山形県遊佐町吹浦字布倉

震災前取材

 

独立峰鳥海山は、古代には国家の守護神として、また古代末期から中世および近世を通じては出羽国における中心的な信仰の山として現在の山形県庄内地方や秋田県由利郡および横手盆地など、周辺一帯から崇敬を集め、特に近世以降は農耕神として信仰されてきた。現在、この吹浦の口ノ宮は、平成20年(2008)に、神社境内が国の史跡に指定された。

創建時期については定かではないが、貞観13年(871)の出羽国司の報告から、飽海郡山上に大物忌神社があったことが確認でき、その以前からすでに山頂には祀られていたことになる。

蝦夷の征討は越国より始められ、慶雲年間(704~08)から和銅年間(708~15)の頃に、庄内以北の征討が始まった。当時この地方は原生林に覆われ、また南方から逃れ来た蝦夷が群居し、常に噴煙を吐く鳥海山が時々大爆発するこの地は、朝廷軍にとって戦慄すべきもので、鳥海山の爆発は戦乱の前兆であると考えられた。

鳥海山の爆発に関して、出羽国府から「土石を焼き、雷鳴のような声を上げ、山中より流れ出る河は青黒く色付き、耐え難いほどの臭気が充満している。死んだ魚で河は塞がり、長さ10丈の大蛇が海へ流れ、それに伴う小蛇は数知れずで…」と報告している。それに対し朝廷は、「奉賽を行い、神田を清めよ」と国守に命じている。

当時、鳥海山には大和名が無く、山そのものが大物忌神と称され御神体とされていた。鳥海山の噴火は、大物忌神の神威の表れとされ、噴火のたびに朝廷より神階が上げられ、貞観13年(871)の大噴火沈静後、山頂に社殿が再建された。その後この地では、元慶の乱など、蝦夷の反乱が頻発し、天慶2年(939)には正二位勳三等となった。

仁和元年(885)にはこの飽海郡に神宮寺があったことから、この頃から神仏習合が始まったとされ、大物忌神は神道の社家と、仏式の社僧に別れ奉仕された。中世には鳥海山大権現と称されるようになった。南北朝期には出羽国一宮とされ、正平13年(1358)には、南朝方の陸奥守兼鎮守府将軍である北畠顕信が南朝復興と出羽国静謐を祈願したという。

この地の大物忌神信仰は、御神体が鳥海山そのものであり、鳥海山の登山口は、主要なものだけで矢島、小滝、吹浦、蕨岡の4ヶ所があり、各登山口には大物忌神へ奉仕する宗徒社人が集り社殿が建てられていた。江戸期に入り、これらのそれぞれの宗徒らは連綿とした事由から反目するようになり、幾度となく争い、庄内藩や江戸幕府の裁決を仰ぐことが少なからず起こった。その争いは明治に入ってからも続いたが、現在は麓の吹浦および蕨岡の社殿を「口之宮」と定め、鳥海山山頂を本社とし、総称を「鳥海山大物忌神社」へ改称し現在にいたる。