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山形県庄内町余目字館…乗慶寺

震災前取材

 

この安保氏供養塔のある乗慶寺の地は、古くは安保氏の館があった地と云う。この供養塔は、天保15年(1844)に、村の若者達が、かつての領主安保氏十六代の供養のために建立したもの 。

この地にあった安保氏の祖は、足利尊氏の執事の高武蔵守師直の家臣、安保肥前守忠実と記されている。安保氏は武蔵七党の一つ、丹党の一族である。

代々、源氏、北條氏、足利氏などの武将に仕えて戦功を立て、その所領は全国に散在していた。安保忠実は光泰の次男で、武蔵国賀美郡元阿保(現在の埼玉県児玉郡神川町)を本貫地とし、足利尊氏の執事の高師直に従い活躍した。

建武2年(1335)の四条河原合戦では、師直から感状と太刀を与えられた。興国元年(1340)に父光泰より安保郷屋敷、余目の領地を譲られたが、自身は京都四条東洞院付近に居住し、師直の影響を受けてか「婆娑羅」を尽くし、賀茂の河原で秋山光政と一騎打ちをして、一躍「ばさら絵」に取り上げられたりもした。

安保氏は常に北朝方に立ち、貞和5年(1350)には、庄内町の立谷沢で北畠顕信と戦った。応永5年(1362)には、自らの館の鎮守社として余目八幡神社を遷座した。しかし、安保氏の活躍の場は常に中央の政治的紛争の中にあり、この14世紀後半からのこの地方の大宝寺氏、土佐林氏、砂越氏などの勢力争いの中に安保氏の名を見出すことはできない。

その後この地は、大宝寺氏、上杉氏、最上氏とその支配者がかわり江戸期に入る。