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山形県庄内町肝煎字丑ノ沢

震災前取材

 

熊谷神社は、出羽三山、善宝寺とともに庄内地方の霊場として、古くから信仰を集めてきた。しかし、いつの頃からか、熊谷三郎兵衛を祀っている。

熊谷三郎兵衛は慶安4年(1651)の慶安の変、世に言う「由比正雪の乱」の際に、由比正雪の高弟として過酷な藩政に苦しむ人々を救おうと活躍し、義民として各地にその伝説を伝えている。熊谷は、由比正雪、丸橋忠弥らに呼応して、京都の二条城を占拠するという大役を担っていた一方の旗頭であった。しかしこの乱は事前に密告により発覚し、三郎兵衛は、妻の郷里である現在の山形県鶴岡市に身を隠し、寺子屋の師匠をしていた。

しかし結局捕縛され、打ち首獄門の刑に処されたとされる。三郎兵衛の縁者らがその首を盗み、鶴岡市三光町の宝林寺に葬ったとされ、寺の本堂裏には三郎兵衛の首塚があり木造が安置されている。人々から慕われる魅力ある人物だったようで、死後には熊谷講という信者の集まりが持たれていたと云う。

しかしその死については異説も多く、京都より桐生の梅田に逃れ、相馬三郎と名乗り、村人やその子弟たちに書や柔術を教え、惜しまれながら天寿を全うしたと言う伝説も残る。

また熊谷神社のあるこの立谷沢の伝説では、三郎兵衛は捕手の包囲を逃れて立谷沢に隠れ、行者となって様々な霊験を示したため、人々の帰依を受けるようになった。晩年には生身入定することを欲し、そのとき遺言として、「どのような願いでも一生に一度は叶えてやろう」と言い残し、食を絶ち、念仏の鉦を携えて塚に入り入定した。

塚の上には、節を抜いた「息つき竹」を立てていたが、ある老女が同情のあまり息つき竹から饅頭を入れ、それが途中に引っ掛かり空気が通らなくなり、それからしばらくして、それまで聞こえていた鉦の音がしなくなったと云う。

熊谷神社の裏手には入定塚といわれるものがあり、戦前には参詣人で賑わい、春秋の祭礼前後には夜籠りする人も多く、臨時列車も運行されたほどであったと伝えられる。

・水稲「亀の尾」

この地は水稲の「亀の尾」発祥の地でもある。