岩手県紫波町大巻

2014/05/08取材

 

別名:河村館

大巻館は、紫波町の東部、北上川左岸にある館山(標高168m、比高約80m)の山頂に築かれた山城である。全体規模は東西約100m、南北約300mほどで、北端の最高所に主郭が置かれ、主郭から南側に延びた稜線に、二の郭、三の郭、四の郭と連なる連郭式縄張りで、各郭は高い切岸と堀で区画されている。二の郭以南の東、南、西の三方は、幅3~5mの横堀が巡っている。また主郭の東、北、西の三方には段郭群が置かれている。主郭は東西約30m、南北約60mで、二の郭は東西約20m、南北約50mほどである。館跡は大正初期に公園として利用され大正園と呼ばれていた。

河村氏の発祥の地は、相模の足柄郡河村郷とされ、藤原秀郷の後裔と伝えられる。河村千鶴丸は、文治元年(1185)の奥州藤原氏の討伐に参陣を許され、阿津賀志山(福島県国見町)の戦に功をたて、頼朝の命で元服し河村四郎秀清と名乗った。このときの戦功により岩手郡の東方三分の一と紫波郡の東方数郷を与えられたと伝えられる。

河村秀興はその秀清の後裔で、分家して下向し大巻館を築いて居城とした。その一族は北上川東岸一帯にそれぞれ居館を設け、大萱生・栃内・江柄・手代森・日戸・渋民・川口・沼宮内などを名乗るようになり、この地方の有力武士団に成長した。

南北朝期、河村氏は、南部氏、雫石氏等とともに南朝方に与し北畠顕家、顕信に従った。興国2年(1341)4月、北畠顕信は北奥の南朝方である南部・滴石・和賀・河村の諸氏とともに、稗貫党等の北朝方と栗屋川で激突しこれを破った。北畠顕信は奥州南朝方の中心として、同年9月から10月にかけて、三迫の石塔義房の軍と衝突し、幾度か戦いを繰り返したが、結局戦いは北畠顕信方の敗北で終った。

この結果、南朝方の結城氏が足利尊氏側に転じて北朝方となるなど南朝方は衰退し、奥州北朝方の勢力が北奥へと伸長し、高水寺城の斯波氏の隣に位置する河村氏への圧力は大きくなり、応永3年(1396)、河村秀基は斯波氏に屈服し、宗家は没落し、その支族は斯波氏の家臣団に組み込まれた。この時期に大巻館は斯波氏が支配するところとなったと考えられる。

戦国時代後期の元亀・天正の頃(1570~)、河村秀定は斯波詮愛に仕え、その剛勇さを買われて鷲内の姓を与えられていた。また秀定の養継子秀重は大萱生の北に居館を構え大萱生秀重と名乗り、河村氏は斯波氏の有力家臣になっていた。しかし天文6年(1537)、南部氏は南下を開始し、斯波・稗貫・和賀氏らは連合してこれにあたったが、天文9年(1540)、南部高信を総大将とする南部勢に岩手郡滴石城を攻略され、繰り返される南部氏の南下に対して斯波氏は防戦につとめた。

元亀3年(1572)、南部氏は南部高信を総大将として、ふたたび志和郡に侵入し、斯波氏は見前舘で防戦につとめたが敗北し南部氏と和睦した。この和睦は斯波氏にとって屈辱的なもので、斯波氏は南部氏に見前舘を割譲し、さらに、娘婿に九戸政実の弟の弥五郎(高田吉兵衛)を迎えるというものだった。

その後、南部氏宗家を田子信直が継ぐと南部氏の南進はさらに激しくなり、天正14年(1587)に、斯波氏の女婿になっていた高田吉兵衛が斯波氏との不和により出奔すると、南部信直はこれを庇護し、斯波方の目と鼻の先の中野館に配した。これに憤った斯波氏は中野館を攻撃したが敗退、 斯波家内部に動揺が拡がり南部方に内応する者も出てきた。

天正16年(1589)、斯波方の岩清水右京が叛乱をおこし、これに対し斯波氏は斯波詮直自らが出陣したが、南部信直はただちに南部軍を南下させた。これを聞いた斯波氏は混乱分裂し、これが命取りとなり滅亡につながった。この時期には大巻館には河村氏、江柄館には江柄民部、栃内館の栃内源蔵、佐比内館には川村喜助ら河村一族が入っていたが、この混乱の中で河村党は分裂し、大巻氏らは主家滅亡に際しても参陣した形跡はない。しかし佐比内の河村秀政は、高水寺から逃げてきた斯波詮直を守り山王海へと落ち延びさせ、秀政自身は戦傷を負い、結局武士を捨てて帰農したと云う。

また 斯波詮直は、河村氏一族の大萱生氏を頼り、大萱生玄蕃は詮直を大萱生城に匿い、翌年の天正17年(1590)南部氏に攻められ敗れ詮直とともに逃亡した。結局河村氏は、斯波氏の滅亡により河村氏も没落し、その後、河村氏一族は帰農したり、南部家や伊達家に仕官したりするなど、それぞれ独自の道を歩んだ。

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