岩手県花巻市石鳥谷

2012/09/08取材

 

 

菊池数馬は幼名を五郎といい、その出自は藤原姓で、藤原道隆の後裔である則隆が、肥後の菊池郷に下向し、菊池を姓を称した。菊池氏は南北朝期に南朝方に立ち奮戦し、南朝方が劣勢になってもなお、関東、東北地方にまでいたり戦った。

 

数馬の父の正宗は、小田原の北条氏に仕えており、小田原城に籠り、討ち死にした。数馬は捕えられたが一命は助けられ、この地に落ち延びた。

数馬はこの石鳥谷の地を愛し、新田の開拓や道路、橋の新設、改良などに力を尽くし、また犬淵村との境界争いにしばしば活躍し、境の平安を守ったという。

万治2年(1659)、75歳で亡くなったが、危篤の際に村の若者たちを集め、「自分が境の鬼となって守るので、境に埋めてほしい」と遺言した。

その遺言にもとづき、境の地の長坂長根に葬り、それからはこの地を「数馬長根」と呼ぶようになり、石鳥谷開発の恩人として崇敬されている。