岩手県北上市和賀町竪川目

2013/04/28取材

 

和泉式部は平安時代中期の歌人で、越前守大江雅致と越中守平保衡の娘の間に生まれる。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人として知られている。長保元年(999)頃までに和泉守橘道貞の妻となり、夫と共に和泉国に入り、女房名「和泉式部」はこれに因んだものとされる。道貞との間に儲けた娘小式部内侍は、母譲りの歌才を示した。

恋愛遍歴が多く、藤原道長から「浮かれ女」と評された。また同僚女房であった紫式部は「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と評している。真情に溢れる作風は恋歌、哀傷歌、釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多い。

この地の他にも、全国各地に伝説が伝えられているが、いずれも伝承の域を出ないものも多い。これはかつて、京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくめぐり、式部の伝説を語り物にして歩いたからだと考えられている。

この地では次のように伝えられている。

和泉式部は、この地より西北方一里ほどの「泉」という集落の貧しい家に生まれ、幼名を「カネ」といった。十二、三歳の頃、付近の長者の栗の木屋敷に奉公に上がったが、主人は毎朝、夜の開けぬうちから「カネ」「カネ」と呼び起こすので、眠くてたまりかね、

仏には ならねばならず 暁の カネという字を いかにあれかし

と歌で返した。

このようなカネの和歌の才能は、次第に人々に知られるようになり、やがて采女に選ばれ、大江雅致の娘として宮中に仕えることになった。

 

また次のようにも伝えられる

和泉式部は、橘道貞と結婚し別れたが、道貞が陸奥守となり陸奥の国にいるとき、自ずからの非を悔いて道貞に会うために陸奥に来たが会うことは叶わなかった。

失意の中で泉の地で数年暮らすうちに、或る大工と親しくなり女の子「カネ」を生んだ。この子も幼少より母親に劣らぬ才能があり小式部と呼ばれていた。ある日道端で草花を摘んで遊んでいるカネに向かい

咲いたる花を ただ折るな また来る春は 何を眺むらん

と問いかけると、カネは即座に

露の命を もちながら また来る春を 思ふぞかなし

と返歌したと伝えられる。

当時、和賀川はすぐこの下を流れていた。ある日カネが一人で渡舟場で遊んでいる内に誤って川に落ち亡くなってしまった。式部は突然の我が子の死を深く悲しんだがどうにもならず、何処ともなく姿を消し消息を絶った。

その後、村人たちは幼くして亡くなったカネを憐れに思い五輪塔を建て供養した。

 

五輪塔を建てた当時は、梵字石が日の光とともに廻るので日廻の塔と呼ばれていた。この地の地名「繰目木」は、この地でものが廻る様子を「くるめく」といい、五輪の塔の様子に因んだものと伝えられる。

その後の寛文年間(1661~72)、藩命により開田の為ここに用水路が掘られることになり、その土手が欠損せぬように祈願したところ、神の御託宣があり、五輪塔を礎石として埋めたと伝えられる。

現在の五輪塔は、明治2年(1869)、小原某なる者が、この地に伝えられる小式部のような才女に恵まれるように願い建てたものと云う。