岩手県奥州市江刺区岩谷堂字館山

2011/12/07取材

 

人首川右岸の比高約80mの丘陵上に位置し、城域は、東西約400m、南北約850mにわたり、北端の最頂部に構築された主郭を中心に、南側稜線に階段状に展開され、端部は腰郭が置かれている。主郭は東西約80m、南北約100mの楕円状であり、周囲に土塁をめぐらせ、北、東、南の三方には帯郭が配されている。主郭の南西には空堀が設けられ、帯郭、中ノ郭を隔て、東西約100m、南北約150mの規模の二ノ郭が置かれている。さらにその西側に三ノ郭が置かれている。

現在、主郭跡には館山八幡神社が祀られており、館山史跡公園として整備されており、土塁、空堀が明瞭に残されている。二ノ郭跡は、岩谷堂高校グラウンドに、三ノ郭は学校用地になっている。

岩谷堂城は古来御館山と呼ばれ、平安期には藤原経清・清衡の居館があったと伝えられるが、その真偽は不明である。文治5年(1189)、源頼朝の奥州征伐の功により、葛西三郎清重は奥州総奉行として陸奥国の胆沢、江刺、磐井、気仙、牡鹿など五郡を与えられた。この江刺郡には、一族の千葉頼胤の三男である胤道が配され、岩谷堂城を居城として江刺氏を名乗った。また、葛西氏五代の孫、葛西信詮の次男の江刺次郎信満が岩谷堂城主とも伝えられる。

南北朝期以降、江刺氏は葛西氏領の北縁を守備する有力な国人に成長したが、江刺氏は宗家である葛西氏と対立するようになった。江刺隆見と葛西政信との間で幾度か合戦が行われ、明応4年(1495)には、伊達家から葛西宗清が嗣したことで叛旗を翻した。しかし葛西勢の攻撃を受け江刺氏は降伏、葛西政信の孫重胤が江刺家に入嗣し江刺家を相続した。

戦国中期、江刺輝重の時の永禄9年(1566)、檜山安東愛季が鹿角郡に侵攻すると南部支援のため鹿角郡に派兵し、また元亀2年(1571)に伊達輝宗が葛西領に侵攻すると、葛西晴信に従い伊達勢を撃退した。しかしその子の信時の天正13年(1585)、葛西氏に叛き葛西宗家から勘当され、江刺氏の家督は庶流の重恒が継いだが、その重恒も葛西氏に叛き、葛西勢の攻撃を受けて降伏し江刺氏の勢力は弱体化した。

しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置により葛西氏は所領没収となり、江刺氏もこれに従い重恒は岩谷堂城を去り、葛西氏旧領は木村吉清に与えられ、岩谷堂城には吉清の家臣である溝口外記が城代として入城した。しかし吉清の家臣らには狼藉の振る舞いが多く、検地への不満もあり、葛西、大崎氏の旧臣や領民たちが一揆を起こし、外記は一揆勢に敗れ討死した。この一揆には江刺氏の一部も加担したが、重恒はこれに加担せず、一揆鎮圧後 三戸南部信直に出仕して新堀城を宛がわれた。

この一揆により木村吉清は失脚し、その旧領は伊達政宗に与えられた。伊達氏の支配下に置かれた岩谷堂城には政宗の家臣である桑折政長が入城したが、文禄2年(1593)、朝鮮出兵中に釜山浦において病没した。

桑折氏の後には母帯越中が城主となったとされる。母帯氏は葛西氏旧臣の名族であり、葛西氏滅亡後は伊達政宗に仕えていた。越中は慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの際の和賀一揆で政宗の命をを受け和賀忠親を支援した。しかし関ヶ原の戦いが予想以上に早く終結したことで一揆は失敗に終わり、忠親は自害し、支援していた母帯越中は政宗により詰腹を切らされたものと思われる。

その後、城主は頻繁に変わったが、万治2年(1659)に岩城宗規が城主となり、大手の移転や建物の改修など大規模な整備が行われ、明治維新まで9代にわたりこの地を治めた。明治2年(1869)、岩谷堂城は新政府に明渡され、廃城となった。