震災前取材

岩手県平泉町平泉字泉ヶ城

 

別名:業近柵
中尊寺の北を流れる北上川の支流の衣川沿いには、柵跡、館跡が多数存在し、これらは奥州藤原氏に関わるものであると同時に、前九年の役当時の安倍氏に関わるものが多い。和泉ヶ城もその一つで、安倍氏時代は業近柵といい、安倍宗任の家臣の藤原業近が守った柵と伝えられる。

平安時代、安倍氏は奥六郡を支配し半独立勢力を形成していた。安倍氏が支配する奥六郡と多賀国府が支配する国衙領の境界は衣川だったが、安倍氏はたびたび衣川を越え、国府側と対立した。永承6年(1051)、安倍頼良は藤原登任率いる国府軍を鬼切部において破り、驚いた朝廷は源頼義、義家父子を多賀城に派遣しこれに対したが、安倍氏を抑えることはできなかった。

源頼義は、出羽の清原氏を味方にし、これにより形成は逆転し、国府軍は衣川関に攻め寄せた。「件の関は素より隘路にして険阻なり。こう函の固めは一人嶮を拒めば万夫も進む能わず」と古文書にあるように、急峻な谷の隘路に設けられた関であったが、木を伐り谷を塞ぎ、岸を崩して道を断ち、さらに雨天続きで河の水は渦巻きあふれていた。この関を挟み両軍は夜まで激闘を行ったが決せず、清原武則は家臣の清久に命じ、両岸の曲木を伝って関内に入り火を放つことを命じた。清久は兵士を引き連れ曲木を猿のように渡り関に火を放った。国府軍はこれを機に攻めかかり、混乱した関を守っていた安倍勢は敗走した。

勢いにのった国府軍は、安倍氏の河崎の柵、小松の柵も破り、業近柵を守っていた藤原業近は守ることはかなわぬと思ったか、柵に火を放ち退いた。源頼義は衣川に入り、衣川館の戦いでも安倍軍はあっけなく破れ、館に火を放って金ヶ崎の鳥海柵に敗走した。

後三年の役の後、この地は奥州藤原氏の支配するところとなり、業近柵は藤原秀衡の三男の和泉三郎忠衡が居館とし、和泉ヶ城と呼ばれるようになった。

文治3年(1187)2月、源頼朝に追われた源義経が、藤原秀衡を頼って平泉に落ち延びてきた。しかしその秀衡はその年の10月に没し、忠衡は源義経を父の遺言通り保護する。義経を立てて源頼朝に対抗するべきだと主張するが、文治5年(1189)、意見が対立した兄の泰衡に攻められて殺害された。

和泉ヶ城跡は衣川の中州の台地上にあり、周囲を衣川が巡っている。中世や近世の城館と比べればその規模は小さく、比高も大きくはないが、周囲は衣川が削った急峻な崖で、四方を衣川に囲まれていることとあいまり天然の要害といえる。

松尾芭蕉はこの地を訪れ、奥の細道に次のように記している。
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先 高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖(さて)も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
夏草や 兵どもが 夢の後

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