岩手県花巻市東和町砂子

2017/05/14取材

 

康平5年(1062)の前九年の役の際に、この地に残る安倍貞任の娘の真砂姫の伝説を聞いた、八幡太郎源義家が、真砂姫を哀れみ、この地に社を建立し、瀬織津姫命を勧請し、姫の霊を弔ったことが始まりと伝えられている。地区内外を問わず厚い信仰を集め今日に至っている。

現在の社殿は、文政年間(1818~29)の建立で、二度目の改築と伝えられ、迦具土命との合祀となっている。特に縁結びの神として地域の信仰を受けている。この地の「砂子」の地名もまた、「真砂姫」に由来すると伝えられる。

康平5年(1062)、前九年の役において、陸奥守兼鎮守府将軍源頼義は、朝廷の意に従わない奥六郡の郡司の安倍頼時を討ち、さらにその長男の安倍貞任を追い、厨川に兵を進めた。

貞任とその一族は、山峡を忍んでこの地を通り北の厨川に向かった。貞任の娘の真砂姫もまた、父貞任の後を追いこの地大沢の滝川にさしかかった。真砂姫は、父の身を案じ、父の身代わりとの思いだったのであろうか、この滝川に身を投じてしまった。

義家の軍に追われ猿ヶ石川を渡った安倍貞任は、谷内峠から田瀬に越えると宮守の笹岡へと向かった。貞任の娘の真砂姫もまた、父の後を追ってこの大沢の地までやってきた。一族もばらばらになり、家臣の直義のほか付き従う者もなかった。

真砂姫はこの地で馬を下り、笠をとり、「すでに父は戦いで死んだかも知れません。自分一人生きていてもどうなることでしょう。ただ、幼い弟の千代童丸の命だけは助けてほしいと義家公にお伝えして下さい」と直義に言った。姫は手紙を書き、切り取った自分の長い髪でかつて義家からもらった一寸二分の観音像を包み、それを直義に託した。

それから姫は、自分が乗ってきた愛馬の「大鹿毛」に「よくここまで私と共に来てくれました。これから先は自由に生きなさい」と言い、鞍と手綱を外した。そして姫は、大澤の瀧にある大石の上で法華経を唱え、川の中に飛び込み姿が見えなくなってしまったが、滝壺の中から白い光が飛び出して東の空に消えた。

姫の愛馬の「大鹿毛」は、涙を流しながら山の上まで行き、西に向かって二度鳴いてから倒れて死んでしまった。その後、その山を「大鹿山」と呼ばれるようになり、また 姫が笠を掛けた松は「笠松」と呼ばれている。

残された家臣の直義は、翌日、笹岡城へ陣を置いていた義家の許に行き、手紙を渡し、その一部始終を義家に伝えた。義家が姫をあわれに思い、真砂姫の霊を「瀬織津姫神」として祀ったと伝えられる。

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