岩手県紫波郡紫波町升沢字前平

2012/09/08取材

 

志和稲荷神社は、天喜5年(1057)、前九年の役の際に、源頼義が、安倍頼時、貞任父子を追討する為に陣ヶ岡に布陣した。源頼義は戦勝を祈願し、京の伏見稲荷神社から分霊を勧請したのが始まりとされる。

その後、奥州藤原氏の一族でこの地を治めた樋爪俊衡が再建したとも、文治5年(1189)の奥州合戦に際して源頼朝が再建したともいう。南北朝期の建武2年(1335)に、斯波家長が奥州管領として斯波郡に下向したのちは、室町時代を通じ、斯波氏代々から庇護を受けた。天正16年(1588)には、斯波詮直により社殿の造営も行われた。

斯波氏が三戸の南部信直に逐われると、この地は南部氏が領するようになったが、以後も変わらず南部氏歴代により崇敬をうけた。慶長4年(1599)には南部信直により田畑24石余が寄進され、嘉永2年(1849)時点での寄進高は都合70石に及んだ。また祭礼等には藩主の直参、或いは代参が頻繁に行われ、南部一族の祈願所的性格を有するようになっていた。

天保5年(1834)には、藩主南部利済は、日光街道に擬えた盛岡から神社までの5里程の参道「志和稲荷街道」を造成し、ている。

明治初年に村社に列格し、大正7年(1918)に県社に列せられた。

志和稲荷神社は、白狐を神の使いとして崇めているが、隣接する志和古稲荷神社の神木がアイオン台風で倒れた際に、中からキツネのミイラが発見され話題となった。