岩手県紫波郡紫波町南日詰

2012/05/16取材

 

別名:比爪館、

樋爪館は北上川西岸の微高地に築かれた単郭の平城である。規模は東西約300m、南北約300mほどの不整形の方形館だったと考えられている。東・北・西側には、幅約10~15mの水壕が配され、南側は五郎沼で画されている。

現在は小学校校地、住宅地になっているため遺構の多くは消滅しているが、北・南側に水濠の痕跡が認められる。発掘調査から、主殿と思われる大型の掘立柱建物祉や、竪穴式住居、井戸跡などが確認されている。敷地内には、箱清水石卒都婆群、不動明王絵像碑など鎌倉時代の遺跡もある。

館の東側には、長さ100m以上の大溝跡があり、また多種類の遺物が出土したことから、東側には樋爪氏に関連する居住域が形成されていたと考えられている。

平泉全盛時代には、この地は「小平泉」ともいえる地で、平泉藤原氏の北方交易の重要な拠点であったと考えられる。館は西方に奥大道、東に北上川と東街道が南北に走る交通の要衝にあり、軍事と物流の拠点でもあった。付近の北上川にあった舟場は、平泉館とを結ぶ北のターミナルと言える。こうした交通路を経てこの地から産出される砂金や馬、漆、米などの産物が送られ、平泉仏教王国の造営を支えたと考えられる。一説には「ひづめ」はアイヌ語で「河原の港」を意味する「ピッツムイ」が転化したものという説もある。

樋爪館は、藤原清衡の子清綱が、この地で産出される砂金や馬などを管理するため、12世紀初~中期頃に築いたと伝えられ、以後清綱の家系は、樋爪氏を称した。しかし文治5年(1189)、源頼朝は平泉を攻めて紫波の陣ヶ岡に布陣した。樋爪一族は、平泉が灰燼に帰し、鎌倉の大軍が向かう中、俊衡、季衡ら一族は居館を焼いて逃走した。

その後一族は頼朝に降伏し俊衡以外の一族は各地に流罪となった。俊衡は高齢であったが、法華経を唱え、申し開きをすることもなかったという。頼朝はこのような俊衡の姿に感じ入ったのか、俊衡には本領を安堵し、俊衡はその後樋爪の地に住み、泰衡の子の秀安を扶養したという。また、泰衡は陣ヶ岡に首を晒されたが、何者かがその首をはずし、首桶に蓮の実を入れて金色堂に納めた。それが出来たのは俊衡以外にはいないと考えられている。

樋爪季衡は各地に落ち延びたとする伝説が伝えられ、宮城県女川町江島には、季衡が上陸した「君が磯」、季衡が敵を見張った「物見岩」などの地名が残っており、久須師神社は季衡を祀ったとされる。また、岩手県日詰、栃木県宇都宮市、山形県高畠町に墓がある。

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