岩手県紫波郡紫波町日詰字西裏

2012/05/16取材

 

岩手県で地方制度として郡制が施行されたのは、明治30年(1897)4月からで、紫波郡役所庁舎は、明治31年(1898)には完成したといわれている。大正12年(1923)に郡制は廃止となったが、庁舎だけは郡役所として大正15年(1923)まで存続した。その後は、紫波郡農会や日詰農業会の事業所として利用された。昭和30年(1955)の町村合併により紫波町が誕生してからは、町役場庁舎として使用され、昭和35年(1960)の町役場庁舎の新築に伴い、この地に移築され町政の拠点の一つとして使用されてきた。

建物は、洋風木造2階建てで、現在の床面積は1階約99.17㎡、2階約83㎡で、外壁は下見板張、縦長の上げ下げ窓を採用している。窓の上部は切妻の屋根を模した小庇が付き、洋風を強調している。玄関ポーチは特にデザインに力を入れられていて、屋根も切妻の妻面を正面にする事で印象深いものになっている。昭和50年(1975)に、紫波町指定文化財に指定された。

古代、この地に志波城が置かれ志波郡が建郡された。11世紀には、俘囚の長の奥州安倍氏がこの地の統治を任され、この地域に大勢力を築いた。しかし安倍氏は前九年の役で滅亡し、出羽清原氏が支配し、さらに後三年の役の後には平泉藤原氏が支配した。その藤原氏も12世紀末、源頼朝と戦い滅亡する。

鎌倉時代には足利家氏がこの地を所領とした。南北朝期になると、南朝方の八戸南部氏がこの地に進出し、葛西氏等と連合し勢力を拡大した。これに対し北朝方は斯波家兼を奥州に入部させ、斯波氏は高水寺に居館を構え、この地で隆盛を極めた。天正年間()に、斯波詮直が北上川遊覧の折、川底の赤石に陽が射し、紫色に輝く川波を瑞兆として「けふよりは、紫波と名づけん、この川の、石にうつ波、紫に似て」と詠み、「紫波郡」に改めたという。

しかし戦国期末期になると足利幕府は崩壊し、斯波氏も政治的背景を失い、南下政策をとり始めた三戸南部氏の攻勢にさらされるようになり、天正16年(1588)夏、南部信直に高水寺城を攻められ敗れ没落した。その後この地は南部氏が領することになった。 江戸初期には盛岡藩の米の供給地とされ、北上川西岸では新田開発が盛んに行われた。