福島県福島市舟場町…長楽寺

 

関ヶ原の戦いの折に、福島城の城将だった上杉の勇将本庄繁長の墓は、かつての福島城跡の近くのこの地にひっそりと建つ。
本庄氏は桓武平氏の流れを汲み、建永元年(1206)ごろ越後小泉庄の本庄、加納、両所の地頭となり本庄氏を称した。

本庄繁長の父房長は、繁長が生まれる直前、遠征中に繁長の叔父にあたる小川長資に居城を奪われた。父の房長は遠征先で病に倒れ、そのまま没した。繁長幼少時は、この長資が後見人であったが、繁長は「幼少より気性剛強で勇猛」と言われ、天文20年(1551年)、12歳の時に、父の13回忌の会場で長資を捕えて自害に追い込み、本庄氏の実権を取り戻した。

繁長は、長尾景虎(後の上杉謙信)が小川長資を支援していたため、当初は対立していたが、永禄元年(1558)からは謙信の家臣となり、川中島の戦いや関東攻めなど、謙信に従って各地を転戦し武功を挙げた。

しかし、本庄氏らの越後北部の国人領主らは自立の傾向が強く、しばしば守護や守護代と対立し、永禄11年(1568)には、武田信玄の調略に応じて繁長は上杉氏からの独立を目論んだ。上杉謙信も、猛将本庄繁長の反乱鎮圧には手間取ったが、 繁長は上杉勢の猛攻を受けて結局降伏し、帰参を許された。

天正6年(1578)、謙信の死により御館の乱が勃発すると、繁長は上杉景虎を支持し上杉景勝に対立したが後に降伏した。その後は新発田重家討伐など上杉家臣として様々な軍功を挙げる。中でも、本庄氏は出羽庄内の大宝寺(武藤)氏と結びつきが強かったため、上杉の庄内支配に大きく貢献した。

庄内進出を目指す最上義光を阻止するため大宝寺氏を支援し、大宝寺義氏が家臣や庄内国人の反乱で自害しその弟の義興が跡を継ぐと、繁長は次男を義興の養子として結びつきを強めた。 しかしこれは、親最上派の国人達の反発を買い、これに乗じて最上義光は庄内に攻め込み、大宝寺義興は自害した。一時庄内は最上氏の手に落ちたが、その翌年の天正16年(1588)、大宝寺の養子で実子の大宝寺義勝を擁し庄内に侵攻し、十五里ヶ原の戦いで、親最上派の国人らと最上軍に壊滅的打撃を与え、上杉景勝家臣として庄内地方を完全に制圧した。

その後、豊臣秀吉の奥州仕置に対する一揆を煽動したとの疑いがかけられ大和に流されたが、疑いが晴れ、上杉景勝により一万石を与えられた。景勝が会津に転封になるとそれに従い、守山城(郡山市)城代に任じられた。関ヶ原の戦いが迫ると、景勝の命により福島城に移り、梁川城の須田長義と共に伊達政宗の侵攻に備えた。

伊達政宗は白石城を落とし、関ヶ原本戦が東軍の勝利に終わったことを知ると、さらに繁長が守る福島城に押し寄せた。繁長は果敢に城を打って出たが、宮代、瀬上の野戦で破れ福島城に篭城した。伊達軍は福島城を包囲し猛攻を加えたが、繁長率いる上杉勢は頑強に抵抗し、伊達勢の犠牲も多く伊達勢は国見へ撤退した。繁長は梁川城の須田長義と共に撤退する伊達勢を追撃し戦果を挙げた。

関ヶ原戦後も福島城代を務め、上杉氏の重臣として直江兼続とともに家中の再建にあたり、慶長18年(1614)、74歳で没した。その跡は、嫡男が早く没していたため、大宝寺氏の養子になっていた次男の大宝寺義勝が本庄充長と改名し継いだ。

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