福島県須賀川市長沼字堀切

  • 上り口
 

別名:千代城、牛臥城

長沼城は、文応元年(1260)に長沼中納言隆時によって築かれたとも、下野国長沼庄から当地に移ってきた長沼氏が南北朝時代に築いた城とも云われているが、詳細は定かでない。戦国時代後期は、葦名氏、二階堂氏、伊達氏らの争奪の地となり、これらの大名の家臣が城主となり頻繁に交代した。

長沼城をめぐって芦名氏と二階堂氏とが攻防を繰り広げ、永禄9年(1556)に二階堂盛義は葦名盛氏に降り、長沼城を葦名氏に割譲した。芦名盛氏はこの城を会津防衛と仙道進出の拠点としたが、天正17年(1589)に葦名氏は滅亡、この地は伊達氏の支配するところとなった。

豊臣秀吉による奥州仕置きの結果、伊達氏は宮城県岩出山に移り、蒲生、上杉、そして再び蒲生と支配者が変わり、その都度、整備が進められていく。特に上杉氏時代には信濃長沼城から島津忠直が入り、会津と白河を結ぶ要衝として重視された。関ヶ原の戦いの前に、徳川家康が率いる会津征討軍に対し、上杉景勝はその進路にあたるこの城を整備し、最前線と位置づけ上杉本軍を率いこの城に入り迎撃体制をとった。

関ヶ原の合戦以後、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となる。

長沼城は、長沼小学校北側にある南北に連なる丘陵を堀切にて分断して独立丘とした日高見山に築かれている。日高見山山頂部に本郭を、西側に二の郭を配し、その周りに帯郭を設け、更に東西にそれぞれ三の郭を配した輪郭式の縄張りとなっている。戦国末期には山ろくにも城域が拡大し、裾野を含めて約400m四方となっており、裾野の最外郭には水堀があった。本郭のある山頂の標高は367m、比高は50mほどである。南北そして東側は急勾配の斜面で守られている。

長沼小学校裏に駐車場が若干高くなっており、この地にも郭が置かれ、小学校側が堀になっており、坂下門があり、東側に大手門に当たる城下門があったと云う。

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