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福島県福島市小倉寺字椿舘

 

椿館跡は、阿武隈川、荒川の分岐点東側の椿山、弁天山に所在し、丘陵の西端が弁天山、配水場を挟んで東側の頂上部が椿館と呼ばれている。椿山、蚕祖神社、そして弁天山の三箇所が主要な郭で、それぞれの平場に数段の腰郭が見られる。
しかし、城館跡の様相は各所に見られるが、水道の施設築造時や公園整備時に地形の改変が行われたとも見え、今ひとつ城館のどのような部分なのかは確証が持てない。

岩城判官政氏、さらに持地遠江守の居館であったと伝えられる。また南北朝期には南朝方の北畠顕国が居城としたと伝えられ、顕国の600年祭にあたる昭和13年(1938)、「顕国卿遺蹟」の碑が建てられている。その後、戦国期には伊達成実が居住したとも云われているが定かではない。

この椿館は、安寿と厨子王伝説にも関わる地である。この地に伝えられる伝説は次のようなものである。
奥州54郡の太守、岩城判官政氏はこの椿館に拠っていた。ところが、声望が高くなるに従い、政氏を妬むものが出てきて、讒訴に遇い、無実の罪で筑紫の国へ流されてしまった。

椿舘には、政氏の奥方と13歳の安寿姫、9歳の厨子王、それに乳母の四人が残された。奥方は、家族四人で都に上り、無実を訴えて赦免状をとり、筑紫に流されている夫を助けようと決意を固めた。
出発に先だち、安寿は躑躅の株につまづき足の爪を傷つけてしまった。奥方はこの不吉を察して娘を励まし、「精あらば姫の恨みうけて躑躅はさかず」といったと伝え、以来、この椿館には躑躅の花は咲かないと云う。

ここを出発した親子は、途中人買いにより、母は佐渡に、安寿と厨子王は丹後の山椒太夫に売り渡され、安寿と厨子王の悲劇が展開していく。