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福島県福島市北町

 

慶応4年(1868)、閏4月20日の未明、この地にあった金沢屋で、東北全土を揺るがす大事件が起こった。世良修蔵暗殺事件である。

東北諸藩は、京都から遠かったという事情もあり、京都守護職だった会津藩主松平容保が、薩摩長州勢力を中心とした明治新政府によって「朝敵」にされたことに対して、東北諸藩は概ね同情的だった。長州藩は「禁門の変」では朝敵となり、会津藩は御所を守り、時の孝明天皇の松平容保への信頼は篤いものがあり、会津藩、庄内藩への新政府の対応は理不尽なものにうつっていた。

慶応4年(1868)3月、新政府は、左大臣九条道孝を総督に、同じく公家の沢為量を副総督に、奥羽鎮撫総督府をつくったが、その実権は、下参謀の長州藩士世良修蔵と薩摩藩士大山綱良にあった。新政府は、総督府と薩長兵を中心とした部隊570人を、海路仙台藩へ派遣した。仙台領に入った新政府軍は、仙台城下で強盗、強姦などの乱暴狼藉を働き、仙台藩士らを激怒させた。

九条総督は、東北諸藩に「会津、庄内追討」を命じ、会津討伐の先鋒は仙台藩で米沢藩がこれを助けることとなり、3月27日、仙台藩主伊達慶邦は重い腰をあげ、仙台藩兵約1000人を会津藩境へ送り、さらに4月11日、伊達慶邦は約8000人の将兵を自ら率いて会津藩境へ出陣した。会津藩は、仙台藩の説得により降伏を決意したが「武装・恭順」を譲らなかった。

会津藩への穏便な処分を願う伊達慶邦は、閏4月11日、首席家老但木成行に命じて東北地方14藩の首脳を仙台領白石に召集し、「白石列藩会議」を開いた。伊達慶邦と、米沢藩の上杉斉憲は、会津藩への寛大な処分を嘆願する東北諸藩の連名による嘆願書等を、仙台領岩沼まで出陣してきていた九条総督に直接手渡し、九条総督はこれに対し一定の理解を示した。

しかし、世良修蔵は怒りこれを退け、仙台藩士、米沢藩士を「仙米賊」として、「奥州皆敵と見て逆撃の大策に致候に付……此の嘆願書通り許され候時は奥羽は1~2年の内に朝廷の為にならぬよう相成るべく……」との密書を、同僚の大山綱良に送った。この密書は仙台藩の手に落ち、薩長軍は会津のみならず、あくまで奥羽全域の武力制圧が目的である事が判明し、和平を模索し藩論が定まらなかった仙台藩は、これで一気に主戦論に傾き、その怒りは世良に向けられた。

同年4月19日、福島の妓楼金沢屋に宿泊していた世良たち一行は、憤激した仙台藩士の瀬上主膳、姉歯武之進や福島藩士らの襲撃を受けて捕縛された。世良修蔵はこのとき、暗殺者に向けて短銃を放ったが不発だった。そのまま二階より飛び降りたが切石に頭部を強く打ち重傷を負い、立ち上がることも出来なかったと云う。 世良は仙台藩士らに捕縛され、仙台藩士らが定宿にしていたはす向かいの客自軒に引きずられて行き尋問を受けたが答えられる状態でもなかったようだ。翌日、近くの阿武隈河原まで引きずられ、そこで斬首された。首は白石に送られ、首のない遺体はそのまま阿武隈川に流されたと云う。

数日後、奥羽25藩が白石に結集し、白石同盟なる列藩同盟が結ばれ、その後越後6藩が加わり、奥羽越31藩同盟が成立し、白石が奥羽越列藩同盟の大本営となった。

現在、世良修蔵が仙台藩士らに襲われた金沢屋は、国道4号線と、旧奥州街道の交差点になっている。この北町周辺は、旅籠が17軒も密集する非常に賑やかな地域だったというが、現在はその面影はない。

現在の明治病院は、この襲撃に手を貸した侠客の浅草宇一郎が営んでいた旅籠「浅草屋」の跡になる。