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福島県桧枝岐村黒岩山
震災前取材
尾瀬大納言藤原頼国は、平家の専横を憎む高倉宮以仁王に従い挙兵を試みた。しかし事前に計画が漏れ平家に追われ、宇治で追討軍に追いつかれ戦い敗れた。頼国ら 以仁王主従13名はかろうじて逃れ、上州よりこの地に至り、さらに越後に逃れたと云う。
このとき、頼国はこの地で病に倒れ、やむを得ず以仁王らを先に逃し、自ずからはこの地に残った。数日後、病状が良くなった頼国は、以仁王の後を追ったが、山奥へと踏み込み道を失ってしまった。
その地には「大鷲沼」があり、広い高原地帯で、人が訪れることもまれで、頼国はその地の岩窟に住み、結局その地に住みついた。その後、「大鷲沼」は尾瀬沼と呼ばれるようになったとされる。
尾瀬側の片品村の伝承によると、尾瀬氏がその末裔とされ、正中2年(1325)、時の尾瀬城主の尾瀬兵衛は後醗醐天皇に味方したため、北条範貞に亡ぼされ、尾瀬氏は滅亡したと云う。尾瀬城は、尾瀬ヶ原の牛首だったと云われ、長蔵小屋の近くの湿原の中に尾瀬氏の墳墓とされる尾瀬塚がある。
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