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福島県金山町中川字宮崎

震災前取材

  • 縄張図(現地説明版)
宮崎館は、中丸城主山ノ内氏の持柵掻場五十一箇所の一つ。天文13年(1544)、横田中丸城主山ノ内俊清は、長子俊通に城を譲り末子俊甫と共に川口に玉縄城を築いて移り住んだ。俊甫の女婿である山ノ内右近行友は、天文19年(1550)頃、三十貫を領した宮崎村に玉縄城の支城として館を築き、宮崎氏を称した。

居館は、この城柵の北方約600mの地に別に構えた。城柵のあったこの地は、「館の腰」と云われ、河岸段丘の南の突端に位置している。中世の城柵は、居館を平地に、詰めの城としての城柵は山城であるのが一般的だが、ここは、居館と同じ平地に築かれている。

この地は、只見川に突き出した半島状の地形で、伊北街道と只見川の水運を掌握する要衝の地であり、ダムによる湛水前は、河畔から30mの断崖絶壁の上という要害の地だった。本郭の規模は、東西19m、南北44mで、東側には帯郭を配し、北側は土塁を築き敵の攻撃に備えていた。

宮崎右近は、天正17年(1589)、葦名氏を滅ぼした伊達政宗の会津侵攻の際には、本家の川口氏とともに伊達側につき先陣をつとめ、本名合戦の主将となって戦った。戦後は本家川口氏と共に伊達氏に従い米沢へ、その後白石へと移った。