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福島県南会津町田島後原甲

震災前取材

  • 鴫山城絵図(現地説明板)
別名:南山城

鴫山城の築城年代は不明であるが、長禄4年(1459)に山内越中と白河氏が「南山しき山の城」を攻め落としたことが古文書に記載されており、この頃にはすでに存在していた。鴫山城一帯は、長沼氏が支配しており、鴫山城を築城したのも長沼氏と推定できる。

鴫山城は標高750mの愛宕山山頂からその北辺部に築かれた城で、当初は急峻な山上に築かれた山城だが、蒲生、上杉時代は北辺の山麓部が城の主要部のようだ。城全体の全長は南北に700mで、山頂部の350mは急斜面、山麓部の350mは緩斜面である。山頂から山麓にかけて、尾根や谷間などの自然地形を利用して、土塁や門、堀などが構築されている。

長沼氏時代は、山頂部を本郭として、山頂から下に北東と西方向に階段状に小郭を配している。中腹に主水郭、御茶屋場、下部に御花畑と比較的大きい郭があり、ここまでが長沼氏時代の城だったようで、南北朝期の典型的な山城の様子がうかがえる。

北辺山麓部には現在大門跡に石垣が復元されているが、こちらは北側の急峻な山と東西に張り出した尾根を自然の城壁とし、山麓北側に堀を配し、侍屋敷跡、御平庭、上千畳、下千畳と比較的広い郭を配している。下千畳が二の丸にあたり、上千畳が本丸にあたると云い、こちらは蒲生、上杉時代の城郭で、特に上杉時代に徳川勢の来襲に備えて整備されたものと思われる。

永正18年(1521)、長沼氏は黒川城主の葦名氏と戦い鴫山城を落とされ、その後も葦名氏と戦い、一時はこの地を取り返すなど勢力を巻き返したが、16世紀半ばには葦名氏に臣従した。天正17年(1589)の摺上原の戦いで葦名氏が滅亡すると、鴫山城主長沼盛秀は伊達政宗に臣従し、伊達勢とともに河原田盛次が守る久川城を攻撃している。天正18年(1590)の奥州仕置によって伊達氏が宮城県岩出山に移ると、長沼氏も伊達氏に従ってこの地を去り、蒲生氏が支配することになった。その後、上杉氏が会津に入ると、鴫山城には直江兼続の弟の大国実頼が入り、徳川の会津征伐の折にはこの城を改修し徳川に備えた。その後再び蒲生氏の支配下となり、寛永4年(1627)に加藤嘉明が会津領主となった際に廃城となった。