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福島県南会津町田島…徳昌寺

震災前取材

  • 寿林の墓
この徳昌寺には、会津の加藤明成の 筆頭家老だった堀主水の夫人の寿林の墓がある。堀主水は明成と不和になり、一族300余人を引き連れて会津を出奔し、明成に討たれた。

加藤明成は、伊予松山から会津に移封になった加藤嘉明の長男で、嘉明の跡を継いで会津藩主になった。この明成は、父嘉明と異なり凡愚だったと伝えられ、民を虐げ、金銀珍器を好み、それも一分金を好んで集めたと云い、その事から人々は、官名の式部少輔に掛けて加藤一分殿と呼んだと云う。

堀主水は、明成の時の筆頭家老で、戦国時代の生き残りの剛勇の士だった。嘉明はその武功により金の采配を与えていた、自他共に認める加藤氏の功臣であった。しかし明成は、口うるさい主水を好まず、両者の関係は良好なものではなかった。

あるとき、主水の家来が明成の家来を喧嘩で傷つけてしまった。これを明成が裁くことになったが、理は主水の家来にあったものを、主水を好まぬ明成は、主水の家来に非ありと裁定し、主水にも蟄居を命じた。怒った主水は、明成に異議をとなえ、「先君には似もやらぬ殿」と言い捨て、このため明成は、家老を罷免して金の采配を取り上げてしまった。

主水は、一族郎党300人を引き連れて、白昼堂々と城下を立退き、途中、手切れの印として、若松城に一斉に鉄砲をはなち、橋を焼き払い、関所を押し破って立退いた。主水は妻の寿林と子を、鎌倉の縁切寺の東慶寺に預け、自身は高野山に入った。

江戸出府中の明成は激怒し追っ手を差し向けたが、高野山に兵を入れるわけにもいかず、幕府に「所領40万石を返上しても構わない」として高野山の探索を願い出た。幕府も放っておくわけにもいかず、高野山に圧力をかけて主水を高野山から降ろさせた。

しかし主水も反撃に出て、江戸の大目付に明成の悪行を訴え出た。主水はその中で、明成はかつて豊臣秀頼に内通し、今でも徳川家に逆心を抱いていると訴えた。しかし審理の結果、主水の訴えは退けられ、その身柄は明成に引き渡された。明成は喜び、主水とその弟2人を拷問にかけ、結局主水は首を斬られ、弟2人は切腹となった。

この事件により、幕府は奥羽の要の会津藩を、加藤明成に任すわけにはいかないと考えたのか、明成を隠居させ、子の明友に石見の吉永に一万石を与え家名を伝えさせた。

その後、鎌倉の東慶寺に逃げていた主水の夫人の寿林は、弟で田島の検
断となっていた黒川貞得に引き取られ、田島で84歳の天寿を全うしたと云う。