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福島県南会津町田島…徳昌寺

震災前取材

  • 長沼氏墓所
南会津の田島を中心とする南山の地は、中世から戦国期にかけて、会津四家と呼ばれた長沼氏が支配した地で、この徳昌寺は長沼氏の菩提寺である。

長沼氏は、藤原秀郷流小山氏の一族で、頼朝の挙兵に参加し、その信頼を得て下野守護職に任じられた。小山氏の二男の宗政は、下野の長沼を領し長沼氏を称した。

観応3年(1352)、惣領秀直は、下野の本領長沼庄の支配を庶子家に委ね、会津南山の田島に下向した。南北朝の争乱に際しては、長沼氏は南朝方、北朝方に分かれて行動したが、同じ小山氏一族の結城親朝が北朝方に転じると長沼一族はそれに従った。その後、長沼秀宗の時代に、庶子に田島を委ね、総領家は下野皆川に移ったとも云うが、詳細は定かではない。

当時、会津では葦名氏が会津守護として勢力を拡大しており、長沼氏は葦名氏と協力関係にあった。享徳2年(1453)の葦名氏の内紛では、南山を通り日光山へ逃れようとした反乱側の芳賀将監とその子を討ち取った。また長禄3年(1459)、宇都宮氏が横領していた長沼氏の所領の下野三依郷を、宇都宮氏が白川結城氏に割譲しようとしたため、長沼氏は葦名氏に支援を求め、三依郷の奪回に成功した。

また、明応4年(1495)、葦名盛高と子の盛滋が対立した際、盛高に叛いた松本備前と伊藤民部は南山を通り下野宇都宮氏のもとへ逃れようとした。このとき、長沼盛秀はこれを追撃し討った。長沼氏はこのように、葦名氏と協力関係を築きながら、葦名氏、山ノ内氏、河原田氏とともに会津四家と呼ばれ、南山に独自の勢力を築いた。

しかし、長沼実国のときの大永元年(1521)葦名盛舜が葦名氏を継いだとき、実国はこれに反対し盛舜と対立し、長沼勢は桧玉村に出撃したが、葦名勢によって大敗北を喫した。さらに天文元年(1532)、葦名盛舜は南山に出撃し長沼氏を攻撃、結局、実国は盛舜に降服した。それでもその後も半独立的な立場は維持できたと思われる。

長沼氏は実国の跡を盛秀が継ぎ、この時期には葦名氏は会津をほぼ制圧し、南奥最大の戦国大名となっていた。会津を統一した盛氏は、領国拡大を意図して仙道方面への外征をさかんに起こした。そのような中で、南奥羽の情勢は、次第に葦名氏、佐竹氏、伊達氏の争いに収斂していった。しかし、葦名氏では、打ち続く外征で、麾下の将士はもとより領内の民は大きな負担を強いられ、不満が蓄積していった。

盛氏の跡を盛興が継いだが早世、盛氏も天正8年(1580)に没すると、須賀川の二階堂氏から迎えた盛隆が家督を継いだ。しかし天正12年(1584)、盛隆は家臣に殺害され、そのあとを継いだ亀若丸も2年足らずで死去した。

ここに至り、葦名氏家中は大きく動揺し、葦名氏の家督をめぐり、伊達政宗の弟の竺丸を推す派と、佐竹義重の次男義広を推す派に分かれて争いが起こった。このとき、長沼盛秀は竺丸擁立派だったが、結局義広が継ぐことに決定した。しかしこの家督争いの後遺症は続き、義広が実家の佐竹氏を頼り、佐竹氏から着いてきた家臣を重く用いるなどしたため家中は混乱した。

南奥羽制覇をもくろむ伊達政宗は、葦名家中の混乱に乗じ、葦名家中に調略の手を伸ばし、猪苗代盛国を抱き込み葦名領に兵を進めた。そしてついに、天正17年(1589)、葦名氏は摺上原で伊達勢と戦い敗れ、義広は佐竹氏のもとに奔り葦名氏は滅亡した。

葦名氏を破った政宗は会津黒川城に入り、山ノ内氏、河原田氏、長沼氏の攻略に乗り出したが、もともと伊達派であった長沼盛秀は政宗に帰順し、抵抗する山ノ内氏勝と河原田盛次に対し、伊達勢の先鋒となった。

盛秀は、まず山ノ内方の簗取城を落し、川向いの河原田方の和泉田城も伊達勢とともにを激戦の末に落とした。このような盛秀の働きは、伊達政宗にも高い評価を得ていたと云う。

翌天正18年(1590)3月、豊臣秀吉の承認を得て、河原田勢が駒止峠を越えて長沼領に攻め込んだ。長沼側はこれを迎え撃ち、大豆渡村で激戦となり長沼勢は河原田方の多くを討ち取った。しかし、長沼勢も多くの死傷者を出し双方兵を引き揚げた。盛秀はこのときの合戦で負傷し、その傷がもとで間もなく死去したと云う。

この年、豊臣秀吉は小田原城を攻略し、伊達政宗もこれに参陣し秀吉に帰順した。秀吉は伊達政宗の先導により会津黒川城に入り奥州仕置を行った。その結果、伊達氏は会津から除かれ、長沼氏は伊達氏に従い米沢に移った。