福島県南会津町田島
震災前取材
年貢は年々重くなり、さらに年貢米は農民達が江戸に運ばなければならず、これも大きな負担になっていた。このため、享保5年(1720)の初冬、下郷の百姓およそ800名が田島陣屋に押しかけ、江戸廻米の廃止などを訴えたが取り上げられることはなかった。
このため翌享保6年(1721)1月、百姓代表15名が江戸へ上り、幕府勘定所へ高率年貢の引下げや年貢の江戸廻米の中止など13ケ条の直訴状を差し出した。江戸での調べは遅々として進まなかったが、百姓達は領内271ヶ村が結束し、資金を調達し江戸訴人を支えた。
初めはこの直訴を軽くみていた幕府は、数ヶ月に及び江戸に滞在してねばり、当時設置されたばかりの目安箱に訴えを投じるなどの百姓の抵抗を憂慮し始めた。このため幕府は、地元領内からの資金源を断ち、百姓の団結を分断するために、地元での執拗な取調べを始めた。
それは、南山御蔵入百姓の代表とする訴人達に、領内の百姓が訴えを本当に委任したかどうか、領内全戸を取り調べるというものだった。これは代官陣屋を、会津の藩兵が警固する中で個別に行われるもので、百姓達を恐れさせるのには十分なものだった。
多くの百姓達は処罰を恐れ、「強制されて資金を出した」「村八分を恐れて加わった」などと申し立て、訴人たちは梯子を外され、「惣百姓の代表」という大義名分はくずれてしまった。
享保7年(1722)7月、幕府は、農民を扇動して一揆を策謀したとして、一揆の指導者の名主3名と百姓3名を斬首し、見せしめのため田島鎌倉崎にさらし首にした。
その後、南山御蔵入は、会津藩への預け支配に切り替えられ、年貢米の江戸廻米は廃止され、その他の百姓達の要求の一部は実現した。
昭和16年(1936)、この地を訪れた土井晩翠は、この六義民に歌を捧げている。
南会津の田島町 郷の一隅護摩山に
嘗て立ちにき六地蔵 義人の霊の弔ひに
喜四郎、喜左衛門、茂左衛門、兵左衛門、久次右衛門
更に儀右衛門壮烈の かたみを残す丘のうへ