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福島県南会津町福米沢…常楽院

震災前取材

  • 観音堂
この「マリア観音」は、付近の杉林の小さな堂に「子安観世音」として祀られていたものとも、土中に埋められていたものとも伝えられる。

その額の部分にはギリシャ十字のついた冠が浮き彫りにされ、冠からは両肩にかけてベールが下がり、赤子を横抱きにしている。このため、マリア観音と考えられるようになった 。

会津地方には、各地に切支丹に関する史跡が散在しており、マリア観音は柳津町や昭和村にもその存在が知られている。

会津でキリスト教信仰が広まったのは、天正18年(1590)、切支丹大名の蒲生氏郷が会津の領主となり信仰を広めたことが大きい。全盛期には、2000人程の信者がいたと言われ、特に猪苗代町、高田町そして南会津の田島町に信者が多くいた。

江戸時代に入り切支丹に対する取締りが厳しくなり、寛永12年(1635)には、会津切支丹の中心人物である横沢丹波が旧田島町水無で捕らえられ、その家族と家の二重壁の中に匿っていた外国人宣教師らが逆さ磔や斬首にされ処刑された。

この地の「福米沢」の地名は、寛永8年(1631)に大鹿原から集落名を変えたもので、「福音」の福と、ギリシャ語の「X」と「十字架」を重ね合わせたキリスト教のシンボルを用いた名前だとも云われてもいる。

明治6年(1873)、切支丹禁制が解除され、その10年後には屋根の上に高々と十字架を掲げた家もあったと云う。