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福島県南会津町古町

震災前取材

  • 城山
駒寄城は伊南川右岸にある山城で、河原田氏の詰の城とされる。標高840mの丘陵ピー クから、北西側に延びた尾根の先端を堀切で分断し城域を区画している。東西約50m、南北約120mほどで、主郭と二の郭からなり、南側に段郭を配している。東、北、西側は急峻な断崖で要害の地となっている。

詳細は定かではないが、小山政光の五男の河原田盛光が、文治5年(1189)の平泉討伐の功により会津伊南郷の地頭となり、駒寄城を支配拠点としたとされる。当初は、平地に館を構え居していたが、戦乱が激しくなり、詰の城として根小屋式の山城を築いたと考えられる。

一時没落したが、それでも室町中期頃までには勢力を拡大し伊南郷の独立勢力に成長した。しかし、天文12年(1543)、葦名盛氏が会津統一を目指し伊南に侵攻し、この頃から葦名氏の支配下に入った。

その後は横田の山ノ内氏とともに会津四家と言われ、半独立勢力として伊南を支配した。しかし天正17年(1589)、伊達政宗が会津に侵攻し葦名氏を滅ぼすと、河原田盛次は伊南郷に戻り守りを固めた。

盛次は、この駒寄城では伊達勢に抗しきれないと判断し、新たな拠点として久川城を築き立て籠もり、豊臣秀吉の承認を得て伊達勢に徹底抗戦した。翌天正18年(1590)、小田原城を落とした豊臣秀吉は会津に入り奥州仕置を行った。

その結果、伊達政宗は会津から撤退したが、伊達勢に徹底抗戦した山ノ内氏と河原田氏の本領安堵の期待は裏切られ所領を没収された。この時期に駒寄城は破却されたものと思われる。