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福島県南会津町青柳

震災前取材

  • 案内図
久川城は、伊南川と久川で三方を囲まれた比高約60mの舌状台地に築かれた山城である。

城域は、東西約180m、南北約500mほどで、東側斜面を削平し、南北に6つの郭を配している。郭の西側に延びる久川に面した稜線を城塁として削り残し、各郭は西側の城塁から東方向に延ばした土塁と空堀で区画されている。

各郭は、北から北出丸、北郭、主郭、二の郭、三の郭、南郭と連郭式に連なっている。主郭は東西約60m、南北約110mで、堀と土塁で区画された方形で、南西隅には建物祉と思われる基壇が築かれている。

大手筋は南東側と考えられ、麓部分には馬出が、また南郭下の虎口は桝形構造で構築されている。主郭までは南郭、三の郭、二の郭下の帯郭を通ることになり、各郭から横矢が掛かる構造になっている。また搦手は北東麓から北虎口に繋がっていたと考えられ、麓には馬出郭があり、北虎口には桝形があった。城と伊南川に挟まれた東麓には、家臣屋敷地が設けられ、外郭を構成している。

文治5年(1189)、小山政光の五男の河原田盛光は奥州征伐での功により、会津伊南郷の地頭に補せられた。河原田氏は駒寄城を拠点としてこの地に勢力を築いた。

南北朝期の建武3年(1336)、河原田弥四郎は、足利尊氏に与したため、一時伊南郷の所領を没収され没落した。その後、応永23年(1416)に上杉禅宗の乱が勃発し、河原田兼村は鎌倉公方足利持氏方に与し、また永享12年(1440)の結城合戦では結城氏朝方に与して討死したが、子の成村の代に伊南郷に戻ったと伝えられる。

河原田氏は、伊南郷で着実に勢力を盛り返していったが、天文12年(1543)に会津統一を目指した葦名盛氏が伊北、伊南郷に侵攻、横田中丸城主山ノ内俊清と駒寄城主河原田盛頼を攻撃したが失敗した。しかしこの後、河原田氏は葦名氏の支配下に入るようになるが、それでも会津四家と呼ばれ、その後も独立した国人領主として自立性を保ちこの地を支配した。

天正8年(1580)に葦名盛氏が死去すると、二階堂氏からの養子の盛隆が継いだが、盛隆は天正12年(1584)に家臣に謀殺され、その子の亀若丸も夭折した。葦名家臣団は、養子を迎えるにあたり佐竹派と伊達派に分裂して対立、結局天正15年(1587)、佐竹義広が葦名家の家督を継いだ。

しかし南奥羽制覇を狙う伊達政宗は、この葦名家臣団の対立を好期として会津に侵攻し、天正17年(1589)、摺上原の戦いで葦名勢を破り、義広を常陸に追い落として会津制圧に成功した。この戦いで河原田盛次は、檜原口を守ったが、葦名勢の敗報と義広の敗走を聞き伊南郷に帰還した。盛次は、この久川城を築き、本拠の駒寄城から移り守りを固めた。

会津盆地を制圧した伊達政宗は、奥会津にも進出し、降伏した南山鴫山城主長沼盛秀を仲介にして河原田盛次に帰順を求めた。しかし盛次は、上杉氏を後ろ盾にした横田中丸城主の山ノ内氏勝と結びこれを拒否し、久川城に立て籠もった。

長沼盛秀は伊達勢の先鋒として、山ノ内方の布沢城を攻略、さらに梁取城、和泉田城を陥落させて盛次を孤立させたが、久川城を陥落させることはできなかった。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めが始まると、伊達政宗はついに小田原参陣を決めた。盛次は豊臣秀吉に実情を上申し、秀吉からの返書を得て雪解けとともに長沼領に侵攻反撃したが、劣勢を挽回することはできなかった。

小田原北条氏が秀吉に降伏すると、秀吉は伊達政宗の先導で会津に入り奥州仕置を行った。秀吉の承認を得て伊達勢と戦った山ノ内氏と河原田氏の伊達勢との戦いは報われることはなく所領を没収された。

その後、盛次はこの地を去り上杉氏を頼ったが、天正19年(1591)に病死したと伝えられる。また一族は、伊南で帰農する者、葦名義広を追って常陸に行き、さらに佐竹氏の秋田移封に従い角館に移った者とに分かれた。

その後、久川城には会津に入封した蒲生氏郷の家臣蒲生郷可が城代として入り、慶長3年(1598)、上杉景勝が会津に入封すると清野長範が入った。関ヶ原の戦い後には、上杉氏は減封され、会津には再び蒲生氏が入り久川城も支城として取り立てられたが、元和元年(1615)頃、一国一城令により廃城となった。