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福島県会津坂下町字光明寺東甲…法界寺

震災前取材

  • 中野竹子の墓
中野竹子は、江戸詰勘定 役会津藩士中野平内の長女で、藩主松平容保の義姉の照姫に薙刀の指南をしていた赤岡大助に7歳から薙刀を習い、書も良くし、容姿端麗、文武に秀でていた。薙刀の腕前は道場の師範代を勤めるまでになり、書もまた、備中庭瀬藩主の板倉侯夫人の祐筆を勤める程の腕前だった。後赤岡大助の養女となったが、戊辰戦争が起こると赤岡家と離縁して中野家に戻った。

慶応4年(1868)8月23日、20歳の竹子は母と16歳の妹優子とともに城に駆けつけたとき、松平容保の義姉である照姫が会津坂下に避難したことを耳にし、他の婦女等と共に薙刀を手に照姫の護衛の為坂下に向かった。しかし照姫は坂下にはおらず城内に入った事を知り、この日はこの法界寺に一泊した。

すでにこの日には新政府軍は城下に入っており、竹子らは城外で戦うことを決めた。竹子は黒髪を短く切り、薙刀に辞世の句を記した短冊を結び、翌日すでに新政府軍が城下に侵攻している中法界寺を出ると、越後口から退却してきた萱野権兵衛の衝鋒隊に出会った。竹子らは従軍を申し出たが女子であるために拒否され、しかし重ねての彼女らの嘆願により同行が許可された。

翌8月25日、若松の町外れ越後街道の涙橋のあたりで、長州藩、大垣藩の兵と遭遇し壮烈な戦いとなった。竹子は薙刀を振りかざし奮戦したが、敵の弾丸が額に命中し、息も絶えだえの竹子は、妹の優子を呼び「敵に首級を渡すな」と介錯を頼んだ。優子は泣く泣く姉の首を落とし、小袖に包みこの地に落ち延び葬った(異説あり)と云う。

武士の 猛き心に 比ぶれば 数にも入らぬ 我が身ながらも

竹子の号をとって「小竹会」が昭和43年(1968)に、竹子の名をとって「小竹会」が結成され、それ以後、毎年顕彰会とともに墓前祭が行なわれている。